如月五月の「ちょっと気になる話題、情報を斜め視線から」

ちょっと気になる話題、情報を斜め視線で解説

SUUMOの特集記事「中古物件売却5ヶ条」が意外にマトモだった

SUUMO新築マンション2019年10月29日号

 

 エキナカで配布される無料の新築マンション情報誌「SUUMO」の最新号に、この手の資料しては意外にもマトモな記事が掲載されたので紹介したい。

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SUUMO最新号の表紙

 10月29日に発行されたSUUMOのタイトルは「首都圏エリア開発MAP」で、これはこれで参考になるのだが、面白いのは巻頭にある第二特集の「マイホーム価格査定術」というタイトルでページ数は4ページ。
 記事では、中古マンション価格の上昇を背景に、住み替え需要への対応策を「簡易査定」「訪問査定」の2段階で行う手続きと、その事例を紹介している。

 

 本誌の狙いはあくまで新築マンションの販売促進なのだが、物件価格の上昇と販売戸数の減少で新規にローンを組んで購入する層が減ったことが影響している模様で、手持ちの物件を売って、新築マンションに乗り換えさせるための記事であることは間違いない。

 

 ただ、これまでのSUUMOの記事を数年にわたって毎号チェックしてきた者から見ると、今回の記事は「不動産業者寄りではなく、エンド(購入する個人)向けの記事」という意味で今までにない視点で書かれていて、その内容も、具体的でわかりやすい。

 例として引き合いに出される2つの査定方式が、数字を使って査定の実態を明らかにしている点にも注目だが、何よりも4ページ目の「家の売却5つの真相」が役に立つ。

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家の売却「5つの真相」

 最初の「査定額が“最も高い”仲介会社を選ぶべき」の項では、「査定額の根拠が確かでなければ、いくら高くても選ぶべきではない」という実にまっとうな正論で始まり、「最初に相場より高い査定額を提示し、後から値下げを提案してくる会社もあるからだ」とその理由を明らかにしている。

 これは間違いなく某財閥系の大手不動産販売会社を示唆した内容であることは明らかだ。

 具体的な会社名を明らかにしていないとは言え、多少なりとも不動産事情に通じていれば、どこの不動産販売会社なのかは一目瞭然。よくぞクレームを覚悟のうえで記事化できたものだと評価したい

 

 この他にも、「売却期間は半年を目安」、「法人や買取条件がシビア」など、物件を売却する個人には有用なノウハウが書かれている。

 

 一点注文を付けるとすれば、5番目の「売却前のクリーニングやリフォームは必須?」について。


 記事では、かかったコストを売却価格に反映できるとは限らない、としている。確かにリフォームについては壁紙やフロア面の素材や色合いなどは個人の好みもあるので、正しいとは思う。ただ、ハウスクリーニングは価格向上に有効だと思う
 部屋の「掃除」レベルなら個人ができないでもないが、水回りなどの「清掃」はプロにはかなわない。浴槽やキッチンなどの清掃ならダスキンのハウスクリーニングで2万円弱から依頼できるし、その結果売却額が10万円以上上がれば対費用効果は大きい。

 

 一方、今回の最新号では別の面でも注目すべき点があった。64ページ目から「今週のクローズアップ」として、3物件が各物件ごとに複数ページに渡って紹介されているのだが、このうち最初の2物件が、かなり以前から本誌に掲載されている物件なのである。

 

 具体的には、一件目の「ザ・パークハウス国分寺四季の森」と、二件目の「ザ・パークハウス花小金井ガーデン」なのだが、前者は2018年8月の竣工、後者に至っては2016年7月と2017年1月の竣工で、完成時期が近いものでも1年2カ月、遅い物件では3年以上前に完成した物件なのだ。

 

 国土交通省の住宅瑕疵担保制度ポータルサイトの「住宅瑕疵担保履行法について」にある、2.の新築住宅の「2.-1『住宅』『新築住宅』とは?」には、「新築住宅」とは、新たに建設された「住宅」であって、建設工事の完了から1年以内で、かつ、人が住んだことのないものを言います、と明記されている。

 この定義に基づけば上記2物件は「新築」ではない。「未入居物件」という言葉もあるが、これも正しくは「建築後1年以上2年未満の建物」となっており、この期間を超えると「中古物件」となる。

 

 まあこの話を突き詰めると、本誌「SUUMO」の表紙にある「新築マンション」という言葉自体使い方を間違えていることなるのだが。

 もっとも、新築物件の供給件数が今年に入って激減し、築一年以上の在庫物件が掲載されるのは、発行継続のためには仕方がないという事情があるのは理解できないでもない。

 不動産会社からの広告収入で成り立っているSUUMOではあるが、本号に限れば、中古物件の売却方法を「業者寄りでない中立的な立場」で解説した意味は大きいと思う。

 

「価値」を再認識することで、商品化は可能と言う「書店」の実例

「入場料を取る書店」がまさかの大流行した理由(東洋経済オンライン)

永井 孝尚 : マーケティング戦略コンサルタント

  

 六本木の「青山ブックセンター」跡地に、オープンした書店「文喫」の新しい方向性を解説する記事「『入場料を取る書店』がまさかの大流行した理由」が10月28日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 「文喫」の特徴を一言で言えば、入場料1500円(税別)を払うと、時間無制限で、コーヒー・煎茶を無料で、店内にある書籍3万冊を座って読める、という点だ。

 

 記事によれば、来客数は多い日で200人、休日には10以上が入店待ちで、平均滞在時間は3~4時間。来店客の4割が書籍を購入するそうで、入場料、飲食料、本の売り上げを全部合わせると、収支が取れている、そうだ。

 

 記事を読んでまず思ったのは、Amazonなど「ネット系」の攻勢で「リアル」書店は縮小傾向が続いているが、販売現場の発想次第で生き残る方策はある、ということ。

 

 実際に、書店の数は1999年の2万2296店から2017年には1万2526店と44%近く減少している。しかもこの店数には本部、営業所、外商のみの店舗も含まれるので、いわゆる普通にイメージする「本屋」の数はすでに1万店を割り込んでいる模様。

 

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日本著作販促センター「書店数の推移」

  

 普通に考えれば、あえて書店に行って持ち帰る手間を考えれば、買いたい本が決まっているならネット注文で済ます人が増えてくるのは当然で、この傾向は今後も変わらないだろう。客の足を本屋に向かせるには、何らかの「動機」となる「工夫」が必要なのは間違いない。

 

 「文喫」が選んだ方法は、入場料という仕組みだ。1500円は高いという人はいるだろうが、そもそも一冊1500円以上する単行本が当たり前の時代に、コーヒーが無料で、最新刊を何冊も読めるというメリットを感じる「読書家」には決して高くない金額だ。

 

 むしろ有料化によって、普通の書店のように「時間合わせのために何気なく」とか「買う気はないけど興味本位で」といった非効率な客が排除できるので、店内も落ち着いた雰囲気が維持できる。リピーターも増えるだろう。

 

 全体としては「構造不況」にあると言える書店だが、業界にも新たな取り組みを目指す動きはある

 

 同じ書店としては、一万円選書で知られる北海道の「いわた書店」がある。一万円選書は自分の好みの書籍のジャンルを登録すると、社長が自分で選んだ本を約1万円分セレクトしてくれるというもの。

 年に数回申し込みを受け付けるようだが、現在は申し込み多数のためか「受付停止中」となっている。

 これは店主(社長)の発想によるものだろうが、読書家としてのスキルを活かした「他には簡単に真似のできない手法」だろう。

 ちなみに、コミック、ライトノベルは対象外となっている。

 

 一方、書籍以上に厳しい状況が続く雑誌の世界でも、販売増に取り組む動きはある。日本雑誌協会が5月に一般書店向けに出版した小冊子「これで雑誌が売れる!!」だ。

当ブログでも8月12日に「小冊子「これで雑誌が売れる!!」で書店は立ち直るか」として取り上げている。

 

 内容は、雑誌協会が書店に対して行ったアンケート結果や業界関係者の対談などを編集したものだが、販売の現場の危機感は伝わってくる。

 

 ここでも、面白い意見だと感じた書店の特徴は、「実店舗ならではのアピールに取り組んでいる」ことだ。

 具体的には、「付録付きの女性誌に関しては、付録を開封して実物が手に取れるように売り場に展示する」など、ネット系の書店にはできない「弱み」を突いている。

 

 リアルの店舗では、来店する顧客の減少とそれに伴う売り上げ減に悩んでいる訳だが、購入する意欲のない人が多く来店しても、売り上げ増には繋がらない。

 むしろ、「文喫」のように、有料化によって書店が「顧客を選別する」という新しい視点を取り入れたことの意味が大きい

 

 ちなみに「文喫」の店内地図を見ると、入り口に「企画展示」とその奥に「雑誌コーナー」はあって、ここまでは無料で利用できるようだ。

 その一方で、5アカウント月額5万円(税別)で自由に出入りできる「法人カード」も導入しており、客の属性によって提供するサービスの内容も変えるという「柔軟な対応」にも注目したい。

 

 書店が生き残る手段としては、ここまでに挙げた「入場料の設定」や「選書サービス」はその成功例の一部に過ぎないだろう。

 

 確実なのは、出版社や取次の言われるがままに配本を受けて、店頭に並べているだけの「無気力な」書店は今後淘汰される傾向が強まるということだ

他人を妬む自分の「心の狭さ」を認めるのは難しいらしい

「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く(ダイヤモンド・オンライン)

AERAdot.

 

 自分が不利益を受けるわけではなくても、他人の利益を不快に感じる。そんな人たちが少なからずいる――この出だしで始まる記事「『他人の得が許せない』人々が増加中 心に潜む『苦しみ』を読み解く」が10月27日付けのダイヤモンド・オンラインに掲載された。(元記事はAERA2019年10月14日号に掲載された記事)

 

 紹介される実例には、

  1. 定食チェーンの「やよい軒」が、無料だったご飯のおかわりを試験的に有料にすることに、おかわりをしない客から「不公平だ」という指摘があった
  2. 女子大生が准教授に、「授業に出てこないのにテストで良い点を取って、いい成績を取る子がいるんです。ずるくないですか?」とクレーム
  3. 大物俳優へのサインを求めるのに「小学校低学年ほどの子ども」をサイン待ちの前列に並ばせて、女優の関心を惹いて優先的に対応してもらえた
  4. 自分の方が先に結婚して、こんなに子どもを欲しがっているのに、『なんで後から結婚したあの子が授かったのか』ってずっと思っています

など。

 

 共通するのは、自分が直接不利益を被ったのではなく、相手が有利な立場や環境にあることが許せない、という「妬み」「嫉妬」だ

 

 記事では、二人の専門家のコメントが紹介されているが、より参考になったのは、浄土真宗本願寺派の研究機関「宗学院」の西塔公崇研究員の意見。

 要約すると「自分中心の心があるから、自分の思い通りにならないときに苦しい感情を抱く」ということになる。

 

 昔から「自己チュー」と呼ばれる嫌われがちな人間はいたが、彼らのできること、影響を与えられる範囲は限られていた。狭い範囲でしか迷惑がかからないので、付き合いたくなければ、本人と関わらなければ問題は起きなかった。

 

 これがネット社会の発展などで、自分の主張をSNSなどを通じて自由に世界規模で発信できるようになった。

 この結果、自分の考え・主張に一致する人々だけでコミュニティを形成するようになり、「自分の意見が絶対的に正しい。他人はすべて間違っている」という偏った考え方をする「自己チュー」が増殖したのだと思われる。

 

 テクノロジーの発展が、社会に悪影響を与えた例のひとつだろう。

 私の周囲にも、ツィッターとかフェイスブックでフォロー数を得意げに語る人がいるが、個人的にはその数にどれだけの意味があるのかよくわからない。

 

 承認要求が満たされるという効果はあるのだろうが、間違っているかもしれない自分の主張を、より強固に見せたいがために、「数」を集めているのであって、その裏側には「自分の存在や主張への自信の弱さ」があるのではないだろうか。

 

 かくいう私も50代後半になってブログを始めたが、これは年々衰えていくはずの「情報への感応度」や「物事への思考力」を、日々文章を書くことで鍛え直すのが主目的で、アクセス数や他者からコメントにはあまり関心はない。

 

 私の考え方の根本には、「他人は他人、自分は自分」というのがあり、他人の成功や失敗にも興味は持つが、関心の矛先は「どうしてそうなったのか」という事実関係に向かっており、「羨望や妬み」の感情はほとんどない。

 

 その理由は単純で「憧れたり、羨んだりしても何の解決にもならず、時間の無駄だから」。

 

 確かに自分も若いころは、恵まれた環境にいる同級生や、実績を上げた同僚に反感を覚えることもあったが、馬齢を重ねるごとに、そういうマイナスの感情を持つことは減っていった。

 その意味では、記事で最後の紹介される「給食の調理室で働く50代の新人イジメを繰り返す女性」は、感情面では子供のままの状態の「見掛けだけの大人」だ。

 

 結局のところ、他人を妬むのは、自分の価値を自分で認めていないからであり、これが自信不足の要因となり、他人の恵まれた立場や環境を許せないという「非合理的」な感情を引き起こしている。

 

 関係の薄い他人であれば関りを持たないようにすればいいが、会社の上司・部下や親せきでは無下にするわけにもいかないだろう。

 解決策のひとつとして、「自分とは違う世界に住んでいる人」という目で見るという手がある。世界が違うのだから、会話が成立しないことがあっても不思議ではない。

 

 あとは、やはり「自分や自分、他人は他人」という意識を持つことが最も効果的だと思う。多く場合、「他人」は自分が思っているほど「自分」には関心を持っていないもの。であれば、他人の事を気にするだけ無駄だとは思いませんか?

 

ホンダの新型フリード、狙い目は次のモデルチェンジだ

ホンダ「フリード」顔つきが少し変化した意味(東洋経済オンライン)

御堀 直嗣 : モータージャーナリスト

 

 10月18日にホンダのミニバン「フリード」がモデルチェンジした。このモデルチェンジの概要を解説する記事「ホンダ『フリード』顔つきが少し変化した意味」が10月26日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 当該ブログでもフリードに関しては9月1日に「フリードの購入は来年以降のフルモデルチェンジ待ちが正解」で書いたが、東洋経済オンラインの記事に「マイナーチェンジの内容は、主に外観の造形と安全機能の充実である」とあるように、機能面での大きな変更はない。

 この時期に記事化されたのは、東京モーターショーが24日から一般公開されたことの影響が大きいだろう。(ホンダは新フリードについて9月30日のメールマガジンで発表済だった)

 

 ただ、車専門誌ではないことを差し引いても、記事の中身は物足りない。前半はこれまでのモデルチェンジの経緯と現在の売れ行きの状況の解説が中心で、後半でこそ新型車の外観の変化や、安全機能の全車装備などに触れているが、どうにも「いまひとつ」の内容なのだ。

 

 例えば、今回のモデルチェンジの目玉のひとつであるSUV感を高めた「CROSSTAR(クロスター)」については、わずか5行であり画像は2枚。しかもその特徴であるフロントグリルを映した画像が1枚しかない。

 

 また安全装置についての内容も疑問を感じる部分があった。記事では「ホンダの運転支援機能であるホンダセンシングを、すべての車種に標準装備し、新たに後方誤発進抑制機能が追加されている」とあり、これは間違いではない。

 ただ続けて「ホンダは、先に発売したN-WGNから、ホンダセンシングの機能をより進化させている。また、すべての車種への標準装備も始めた」とあるのはいただけない。

 

 この文面では、新型フリードが「より進歩した」ホンダセンシングを装備したようにも受け止めることができるが、実際はそうではないのだ。

 N-WGNの安全装置は「全車速対応型のオートクルーズコントロール(ACC」」という渋滞時に停止状態までカバーする機能と、その停止状態をブレーキペダルを踏まずに維持する「電動パーキングブレーキ」が装備されている。今回のフリードにはこの2つの機能はない。いわば「一世代前」のホンダセンシングなのである。

 

 また購入予定者には気になる「価格」に関する記述がまったくないのも不親切だろう。

  同じモデルチェンジの内容を伝える記事では専門誌「ベストカーWeb」の方が、ずっと詳しいし分かりやすい気がした。

 

 まだ発売直後ということもあって、実車特にCROSSTAR(クロスター)の展示車、試乗車を置いている販売店は少ないが、来月以降順次配備されていくものと思われる。

 ちなみに最新の車やバイクが見れて、カタログも受け取れるホンダのショールーム「ウエルカムプラザ青山」は現在改装工事中で、来年1月まで閉館しているので注意されたい。

 

 個人的には、現在保有しているミニバンからフリードへの乗り換えを検討しているのだが、今回は見送ることに決めている

 

 その理由としては2つ。先に上げたホンダセンシングが最新型でない点がひとつ。もうひとつは、スライドドアの有無という違いを除けば、ほぼ同じモデルのフィットのフルモデルチェンジ車が東京モーターショーでお披露目され、新たなハイブリッド機能「e:HEV(イーエイチイーブイ)」を搭載しており、次回のフリードのフルモデルチェンジでの採用は間違いないからだ。

 

 とは言え、フィットのハイブリッドといえば「リコールの代名詞」とも呼ばれるほどで、2013年9月のモデルチェンジから1年間で5回もリコールを実施している。

 これについては東洋経済オンラインでも2014年10月に「フィットの不具合連発を招いたホンダの内情」で詳しく解説している。

 

 ホンダは現在3つあるハイブリッドの機能を、新型フィットに搭載した2モーター方式のシステムに統合する意向を示しており、現行のフリードの1モーター方式が中止になるのは既定事項。

 であれば、今回のフィットのハイブリッドの機能と評価が定まるのを待って、次期モデルチェンジ(2022年との見方が有力)のフリードを購入するのがより確実な選択だと思う。

 

 フィットについて言えば、元々は10月の発表、11月の発売を予定していたが、電動パーキングブレーキの不具合が見つかって、発売は来年2月に延期された

 発売後のリコールではなかったという意味では「不幸中の幸い」かもしれないが、出鼻をくじかれたのは確実。つくづくフィットは「不運」はクルマだと思う。

 

 フリードに話を戻すと、新モデル・クロススターに魅力を感じて、2代目(2007-2013)に乗っているひとは、車検に合わせて乗り換えるのもアリだとは思う。逆に現行の3代目に乗っている人には、あまり魅力を感じる変化はないし、乗り換えのメリットも少ないだろう。

 

 個人的には、ライバルとされるトヨタのシエンタが今後どのような展開をしてくるのか、に注目している。特に安全装置の機能ではホンダに大きな差を付けられており、現在は強固な販売力という「力技」で売って好調を維持しているが、いずれ限界は来るだろう。

 

 この1.5Lエンジンをベースにしたこのクラスのミニバン市場は、フリードとシエンタの真っ向勝負となっていて、他にはスズキの「ソリオ」(1.2L)が見当たる程度。

 日産がこのクラスに参入してくれば、市場が活性化して面白いと思っているのだが、現在の混迷を続ける社内事情を考えると、期待できそうにない。

カジノは「必要」なのか、「あってもいい」のか

ラスベガスのカジノ王が「大阪」にこだわるわけ(東洋経済オンライン)

森田 宗一郎 : 東洋経済 記者

 

 日本では初めてのカジノ(正確には統合型リゾートの一部)が実現化に向けて動き始めているが、横浜市が突如誘致に名乗りを上げ、米国大手の一角が大阪から横浜に進出先を変更するなど、カジノビジネスにおいて、その中身と合わせて進出先についての関心も高まってきた。

 

 こうしたなか、同じく米大手のMGMは大阪への進出の姿勢を一貫して維持している。10月25日付けの東洋経済オンラインに同社社長へのインタビュー記事「ラスベガスのカジノ王が『大阪』にこだわるわけ」が掲載された。

 

 記事では同社が、2014年の日本法人設立以来、大阪の自治体との良好な協調関係を維持していること、他社の異なり大阪IRを日本全国と統合するビジョンを持っていることを、大阪にこだわる理由として挙げている。

 

 最初に個人的なカジノに対する見方を言えば、「あって悪いとは言わないが、絶対に必要かと言えば疑問」だ。

 

 まずカジノのもたらすメリットだが、言うまでもなく「経済効果」だ。記事では大阪による経済効果の調査では「訪門客2000万人、うち訪日外国人700万人」とふんでいるが、実際にカジノで落とす金額ベースでは、外国人の方が多いだろう。

 

 海外のカジノの収益の多くは、特別に用意された専用室でギャンブルに興じる「富裕層」からもたらされているのが実態。1回当たりの掛け金も、大きなフロアでスロットマシンに小銭で勝負する一般人とは「2桁」以上は違う。

 

 外国人が日本のカジノで使ってくれる金額が、運営企業の米国企業の利益取り分分を差しいたとしても、雇用やIR内の商業施設などでの売り上げに繋がれば、大阪の経済的地位向上にもなる

 また、現在は首都圏に集中している大規模な会場が整備されれば、国際会議や見本市などの誘致も可能になる。

 

 もともと、公的なギャンブルと言えば「堂島の米取引所が先物相場が世界初」との見方もあり、大阪と賭け事の相性は歴史的にも悪くない。

 

 また、ギャンブルには非合法組織の関与が懸念されるが、米企業はラスベガスで徹底した対策を講じており、日本でもそのノウハウは生かされるはずだ。

 

 一方、デメリットとしてはギャンブル依存症の拡大が最大の懸案事項だ。

 現在でも、3競、オートと呼ばれる4つの公的ギャンブルに加えて、パチンコ、パチスロのグレーゾーン上の賭け事も存在する。

 

 これらへの依存症対策ですら十分ではない現状で、さらにカジノを誘致する必要性と問われると、返答には苦しむ。

 記事では社長が「業界のリーダーであるMGMにも、節度や責任を持ったカジノの情報提供が求められている」としており、収益の一部は企業イメージ向上のために依存症対策に充てる算段だろう。

 

 ただ、この主張もよく考えると、「風邪の患者が増えるなら、治療薬を配布すればいい」という理屈とも言える訳で、本来あるべき政策は「患者そのものを減らす」ことではないだろうか。

 

 ここまでカジノ誘致のメリットとデメリットを挙げたが、個人的には日本のカジノは「当初話題を集めても、既存のギャンブルへの影響は軽微」だと予想している。

 

 その理由として、まず第一に現時点で6000円とされる入場料。これは私が個人的に趣味のひとつにしている競輪の場合、立川競輪場の入場料はたったの50円であり、カジノにはその120倍もの資金が必要だ。私ならこの時点でカジノに魅力を感じない。

 しかもレースへの掛け金は100円から可能。カジノの掛け金の最低レートがいくらかは知らないが、現実的には100円ということはないだろう。

 

 加えて、カジノへのアクセスの問題がある。公的ギャンブルは駅からある程度距離がある場合、多くの場合最寄駅からの無料送迎バスがあるが、カジノはおそらく鉄道でのアクセスがメインになる。交通費もばかにならない。

 とてもではないが、庶民にとって身近なギャンブルとはなり得ないだろう。その意味ではカジノで依存症患者が激増することはない訳だが。

 

 ということで、海外から来日する富裕層からの収益とそれに見合った雇用などの経済効果が見込めるという点では「あってもいい」とは思うが、依存症対策などのマイナス面を考慮すると是非とも「必要」とは思えない。

 

 ただ新たな事業やビジネスを始める場合には、その具体的な影響が読み切れないだけに、その存在や影響に不安を抱く人が出るのは仕方ないし、既得権益を持つものからは反発の声が上がるのは必然ではある。

 しかも今回は何かと批判を受けやすい「ギャンブル」だけになおさらだ。

 

 導入すること自体はすでに政府の決定事項なので、あとは「経済効果」の最大化と、「社会的悪影響」の最小化を目指すしかないだろう。

 

金融商品をめぐるトラブルは「顧客」側にも問題アリ

銀行・証券を不適切営業に走らせる、顧客の「無理な注文」4パターン(ダイヤモンド・オンライン)

山崎 元:経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員

 

 不適切な金融商品の販売というと、まず頭に浮かぶのは「金融機関が商品知識に乏しい高齢者をカモにして・・・」という事例なのだが、10月23日付けのダイヤモンド・オンラインに、「銀行・証券を不適切営業に走らせる、顧客の『無理な注文』4パターン」というタイトルの記事が掲載された。

 

 内容は、よくある金融機関側から顧客への不適切な勧誘だけでなく、顧客側が無理や非合理的な要望を押し付けることが、結果として営業マンが顧客に不釣り合いな商品を販売する要因になっている、という趣旨だ。

 

 記事では、顧客側の不適切なニーズとして、以下の4つのパターンを紹介している。

 

  1. 実現不可能な希望を持つ
  2. 本当は得にならない状態を望む
  3. 真の問題解決にならない商品・サービスを望む
  4. 金融の問題ではないニーズを金融で解決しようとする

 

 1のパターンの例として、「安全な2%の利回り確保」というニーズを挙げている。

 記事にもあるが、郵便局の定期貯金金利(1年物)が年率4.57%、銀行の定期預金金利(同)に至っては同5.57%もあった1991年頃の金利水準を覚えている中高年世代に多い。

 朧げな記憶ではあるが、当時の日本興業銀行等の発行する割引金融債(ワリコー等)には、購入希望者が店舗の周囲を取り巻きニュースになるほどの人気商品だった。

 

 こういう人たちには「現在の預金金利はほぼゼロ%、長期金利に至ってはマイナスなのですが」という話をしてもまず通じない。過去の金利と比較して2%程度の利回りなら、何とかなるはずという「根拠のない前提条件」が染みついている。

 

 2の例としては、金融庁の強烈な指導もあって一時期ほどの勢いはないが、根強い人気がある「毎月分配型の投資信託」が紹介されている。

 記事にもあるように、毎年支払う手数料を考慮するとまったく検討にすら値しないダメ商品なのだが、これを購入する高齢者は後を絶たない。

 

 個人的に知り合いの高齢者と話をする機会があったので、「毎月分配金を受けとる投資信託を購入するぐらいなら、1カ月満期の定期預金を毎月一部解約した方がお得ですよ」とアドバイスしたのだが、本人曰く「通帳の預金残高が毎月減っていくのは見たくない。それなら投信の分配金を年金代わりに受け取った方がいい」と譲らなかった。

 こうなると損得の「理屈」ではなく、個人の「信念」に近いので、他人のアドバイスは耳に入らないだろう。逆にここまで自分の資産管理を自分で納得しているのであれば、理論的に間違っていても他人がとやかく言う話ではない

 

 3のパターンの商品例として、記事では「ファンドラップ」と「ロボアドバイザー」を取り上げている。どちらも金融商品としての歴史は浅く、その商品内容が投資家に幅広く理解されているとは思えない。

 どちらもカタカナ名称で、いかにも上手に運用してくれそうなイメージを醸し出そうという販売側の意図が見え見えだが、前者は「人間」に、後者は「機械」にその運用を任せるかという違いであって、余計な手数料を支払わされるという点では同じだ。

 多くの場合、カタカナなどで目を引く名称の金融商品は、売りにくい商品を売るための「隠れ蓑」になっている

 

 4については、記事では高齢者の話し相手になってくれる営業マンに付き合って、勧められるままに金融商品を買ってしまうケースを取り上げている。

 「買い手」の懐に入り込んで信用を得るのは営業手法のひとつではあるが、セールスマンからすれば「時間を割いて話を聞いたんだから、こちらの立場も考えてくれ」となり、結果として営業成績として評価されやすい利益率の大きい商品、つまり購入者には不利な商品を販売することになる。

 例えるならば、戸建てに一人住まいの高齢者の話し相手になって、信用させたうえで法外な金額のリフォーム契約をする類の悪徳訪問販売業者の手口に近い

 

 以上4つのパターンをキーワードで表現すると、1は「時代錯誤」、2は「自信過剰」、3は「思慮不足」、4は「思い込み」になる。この「無理筋」な思考回路でセールスマンと向き合うから、提示される金融商品も「不適切」なものにならざるを得ないという側面は否めない。

 

 普通の人にとっては「命」の次に大事な「おカネ」なのだから、自己責任で対応するのが基本なのだが、相手は金融商品の「売り手」のプロである。1から4のパターンに該当するような顧客を「落とす」テクニックには長けている。

 

 対応策としては、今更ながらだが、自分の行動に常に疑問を持つか、信頼できる身内に相談するぐらいしか思いつかない

 あとは、過去の記事や著作などを読んだうえで、個人的に信用している本記事の著者・山崎元氏の著作を読んで参考にするぐらいだろうか(私自身、20年以上前だが一度仕事でお会いしたことがある)。

私立大学の研究費「貧困」は無用な大学が多過ぎるからだ

「大学の貧困」が「国難」につながる深い理由(東洋経済オンライン)

岩本 宣明 : 文筆家、ノンフィクションライター

 

 日本の大学の「研究」が窮地に陥っているという趣旨の記事「『大学の貧困』が「国難」につながる深い理由」が10月23日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 記事では、国立大学の場合「大学運営費交付金」が収入源に占める比率が高いが、これが2004年の国立大学法人化以降、毎年1%ずつ減額され続けてきたことが、また私立大学では、これに該当する「経常費補助金」が大学の増加に見合って増えていないことが影響していることを最大の要因としている。

 

 また、私立大学では学生獲得のための各種サービスや事務作業に追われて、研究に向ける時間が減っていることが、大学の研究力の劣化に繋がり、日本から科学者がいなくなると警鐘を鳴らしている。

 

 まず、最初に言いたのは、大学(特に私立大学)の研究機能が劣化したと筆者が指摘している「経常費補助金」だが、記事では「国が私立大学を補助する経常費補助金の総額は長期的に増額されていません」としているが、日本私立学校振興・共済事業団私学振興事業本部のWebサイトによれば、私立大学への交付額は、サイトで確認できる過去分(平成15年)以降を見る限り、平成15年を100とすると、交付額が最大だった平成23年には119.71%とほぼ20%増、直近の平成30年度比でも111.68%と10%以上増えている。(注:金額の単位:百万円は千円の誤りです

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          私立大学への補助金の推移

  平成15年時点の大学数は512校だから、平成30年の603校の伸び率(17%)に比べれば低いが、それでも大騒ぎするほどの違いではないだろう。

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大学数の推移

  

 問題の本質は、私立大学の校数が激増したことにある。平成15年以前の補助金の交付額が時間の都合で取得できなかったので、ここは個人の参考意見になるが、大学の研究機能が疎かになったのは、「補助金・交付金」が増えなかったからではなく、大学の数が増え過ぎたためだ。

  

 大学進学を希望する高校生が増えて、進学率が上昇したという背景があるのは分かるが、その増えた大学と大学生の実情をよく考えてみると、「研究」はおろか「大学」の名に値しない学校が多過ぎるのではないか。

 

 偏差値のつけようのないボーダーフリーと呼ばれるFランク大学という名称はごく一般化したし、実際に私立大学の40%近くは定員割れという現状がある。もっとも都心の大学の定員厳格化でここ数年は多少この比率が下がったようだが。

 

 記事では、「1980年には1校平均約8億円だった補助金は、私立大学が過去最高の606校となった2013年には約5億円に減りました」とあるが、1980年時点の私立大学の数は319校だったのが、2013年には603校と90%近く激増している(2018年時点では603校)。

 

  学生数に応じて補助金を交付するのであれば、相対的に学力や研究能力の高い私立大学への交付額は減ることになる。これでは専門性の高い研究活動に支障が出るのは当たり前である。

 

 ちなみに、国立大学は1980年から2018年までの期間で、93校から86校に減少している。これは医科系の単科大学が総合大学に併合された影響が大きいだろう。

 

 記事では最後に「研究力再生のために、革命的な政策を打ち出さなければ、大変なことになってしまいます。待ったなしです」とまとめている。

  著者の言う「革命的な政策」というのは、補助金・交付金の増額が主たる内容だろうが、繰り返すようだが問題の本質は「研究機関に値しない私立大学が多すぎること」だ。

 

 無用な大学と学生を減らせば、その分高度な研究を行う大学に資金を回せる。大学の進学率も50%を超えた2009年以降伸び悩み傾向にあるうえ、少子化が進むことで学生数の減少は確実。大学の選別は一段と厳しくなるだろう。

 一方で、政府の財政は悪化したままで、大学の研究開発予算の増額は期待できない。

 

 現状の交付額で、大学の研究力を高めるには、優れた研究が可能な大学に優先的に予算を振り向けるしかない。

 現状でも、文部化科学省が「研究大学強化促進事業」などで、研究体制の強化を行っているが、抜本的な成果は期待しにくい。

 

 大学の研究体制強化への根本的な解決策は、研究開発能力の低い大学の淘汰である。

 

 

Amazonは配送業務でも主導権を確保、ただトラブルリスクは増大も

ヤマトがアマゾン向け運賃を値下げ!2年前の値上げから一転の事情(ダイヤモンド・オンライン)

ダイヤモンド編集部 柳澤里佳:記者

 

 ヤマト運輸がAmazonとの交渉で、「宅配の荷受け量を増やし、一部運賃を値下げしたことがダイヤモンド編集部の取材で分かった」という内容の記事「ヤマトがアマゾン向け運賃を値下げ!2年前の値上げから一転の事情」が10月22日付けのダイヤモンド・オンラインに掲載された。

 

 記事では、当初ヤマト運輸は20年以降「値上げ」の予定だったが、今回の交渉で据え置きか値下げで合意した、と関係者のコメントを紹介している。

 

 その理由として、大口法人1000社の「荷主離れ」が進行し、Amazonの値上げ分では取り戻せないほどの機会損失が発生していることが挙げられる。

 

 一方のAmazonは、2017年のヤマトとの配送料交渉で、「いかに配送の現場が疲弊しているか」がマスメディアなどで報じられ、世論がAmazonがヤマト運輸を「業務委託先いじめ」しているような印象を持ったことで、社会的な批判を危惧したAmazonが大幅な値上げを受け入れたというのが実態と個人的には思っている。

 

 その後Amazonは配送業務の1社専属契約のリスクを意識して、地域に密着した複数の中堅配送業者「デリバリープロバイダ」との契約を急ぐことになる。複数社との契約交渉の手間はかかるが、料金交渉の柔軟性は上がる。

 

 デリバリープロバイダにとっても、それまでヤマト運輸などからの「下請け」で抑えられていた配送料金が、Amazonとの直接契約で引き上がるという効果もあったはずだ。

 

 一方で、このあおりを食らったのがAmazonの「顧客」。それまではヤマト運輸の制服を着たお決まりの配送員が業務を担っていたが、見たこともない制服を着た人が入れ替わり来るようになって戸惑った人も多かったのではないか。

 

 さらに最近になってAmazonは「Amazon Flex」という名称で、個人事業主との配送業務の直接契約を進めている。

 これには、デリバリープロバイダという中間業者との取引を省くことで、さらに配送料金の値下げを目指すと同時に、自社の配送網を整備するという狙いがあるのは明白だ。

 

 ここでも問題になるのは、配送員の「質」だ。デリバリープロバイダの登場で配送員の質に多少のバラツキが生じたが、個人事業主との契約によって配送員はまさに「玉石混交」になりかねない。

 

 この辺りの事情は10月19日の当ブログ「個人事業主の配送業務、問題は今後拡大する可能性がある」でも指摘したが、結論から言えば、「会社の従業員」として働く場合、会社員としての自覚が多少なりとも働くので、顧客とのトラブルは抑えられる効果はあるが、これが「一個人」として仕事を請け負う場合、このブレーキが効きにくくなる。

 

 つまり配送に伴うトラブル(遅延、破損、返品など)で、配送員が自分の判断や感情にまかせて行動する可能性は高まるだろう。

 実際に最近、自宅に来た個人事業主と思われるAmazonの配送員は、チャイムを鳴らした後、無断で私有地である庭に入り込んで玄関先まで荷物を持ってきた。しかも無言で伝票を見せて、押印しろと言うムードまで漂わせてい過去にはこのような不愛想かつ不気味な配送員は一人もいなかった。

 

 個人的に危惧しているのは、若い女性の一人暮らしなどのケースだ。配送員が女性の顔と住所を覚えることで、何らかの事件に巻きもまれた場合、Amazonは「あくまで個人事業主との契約なので」という立場で事態を乗り切れると考えているのだろうか。

 

 法律上は問題なくても、個人事業主と契約したAmazonの社会的な責任を追及する声は上がるだろう。これは2年前にヤマト運輸が世論を味方につけて、Amazonが渋る値上げを認めさせた構図に重なる部分もある。

 

 2017年のヤマト運輸の配送料の値上げ実現からわずか2年で、Amazonの配送業務の中身は大きく変貌しつつある。

 ヤマト運輸、デリバリープロバイダ、個人事業主を自在に使い分けるAmazonの手腕には感心するが、歯止めの効かないコスト削減を進めることによって、別のリスクが浮上しつつあることにも関心を寄せた方が良いと思うのだが。

 

 

「医師」の言葉が理解できないのは「患者」の責任なのか

医師との会話がどうしても「ズレまくる」理由(東洋経済オンライン)

平松 類 : 医師/医学博士

 

 医師とうまく意思疎通できない――この状況について現役医師の立場から解説する記事「医師との会話がどうしても『ズレまくる』理由」が10月21日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 執筆した医師は、「医者が発する言葉」と「患者さんが受け取る言葉」について、解釈の違いを実感している、ことが問題の要因だとしている。

 

 記事では「治療」という言葉ひとつとっても、肺炎のように薬で「完治」するのと、高血圧のように「症状が悪化しない」のも治療に含めるという医者の立場を紹介、「治療」に対する捉え方の違いが存在すると指摘している。

 

 その他にも、「正常値」「最新治療」「合併症」などについても触れているが、内容を読んだ感想としては、立場上仕方がない面があるにしても、「医師と言う上から目線の解説」だった。

 

 例えば「合併症」。記事では、「しっかり縫っても、不十分であることが10%(術式による)は起こるものなのです」と解説している。

 普通の患者の捉え方は、手術の失敗に起因するのだから医師の責任ではないか、だと思うのだが、執筆した医師は「(合併症とは)ミスとは明らかに関係ない流れで起きた悪い状態を指します」としている。

 

 続けて、「合併症だから問題ないし、医者は何もしなくていい」と言いたいのではありません。言い訳しているのではなく、そもそも意味が違うということです、と書いているが、これは一見医師の側にも「課題」があるように見えて、実際は「責任」を回避しているようにしか見えない

 

 医師と患者で「治療用語」に対する「意味」が違うのであれば、その誤解を解消する努力は一義的に「医師」の側にあるはずだ。

 

 その理由としてまず、医師と言う専門家の使う専門用語を、そのままの意味で「素人」の患者に使って、理解しない方にも問題があるというのは「世間一般の常識」とは異なる。

 

 法律の世界の弁護士も、教育に従事する教師も、自分たちの世界の「専門用語」を相手に理解してもらえるように努力するのが当たり前である。

 

 加えて言えば、医師と患者は例えとしては言葉は悪いかもしれないが、サービスの「売り手」と「買い手」という関係にある。診療代金を支払っているのだから当たり前である。常識的には「売り手が買い手に配慮する」べきだろう。

 

 対価を受け取っておいて、患者が納得できない場合、「説明した内容を理解しない患者に責任がある」という理屈がまかり通るのは、医療業界ぐらいではないだろうか

 

 確かに患者側にも、自分の症状への知識習得を怠って、言われるがままに治療や投薬を受け入れるのはどうかとも思うが、患者の高齢化が今後一段と進む中で、体力、判断力の低下した高齢者に「自分のことは自分で勉強してくれ」と言うのは、あまりに酷ではないだろうか。

 

 文末には、医学の世界は「科学的に議論しやすいように用語を作っている」ので「一般に理解しやすいように用語を作っていない」からなのです。と書かれている。

 

 この言葉からは、「ならば一般人にも理解できるような仕組みを作ろう」という患者サイドに立った意図は感じられない

 医療業界の「問題提起」という点では意味があるが、その先にあるべき「ではどうすべきか」まで触れてほしかった。

シニア層の社会人は「夫婦」関係を見直すべきなのか

家族サービスという言葉に感じる日本の残念さ(東洋経済オンライン)

ドラ・トーザン : 国際ジャーナリスト、エッセイスト

 

 今の日本には「仕事がメイン」という考えが強く、「家族への愛」が弱体化しているという内容の記事「家族サービスという言葉に感じる日本の残念さ」が10月20日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 著者はパリ生まれ生粋のフランス人女性で、フランスは「カップル文化」が社会の基本。仕事が終わったら夕食は夫婦でレストランで食事をとるのが自然、としている。

 

 また、子供を含む「家族サービス」については、その概念すらフランスにはなく、家族で行動を共にするのは当たり前として例として、日本で開催されているラグビーワールドカップで、フランスチームは、選手、スタッフとも家族同行が許されている、ことを挙げている。

 

 記事を読んだ感想を言えば、「恋愛」「家庭」を最優先に考えるフランス人の生き方に、見習うべき点はあるが、家庭での夫婦の役割分担が比較的明確な日本、特にシニア層ではこれをそのまま当てはめるのはどうだろう?、だった。

 

 若い世代は、共働きが当たり前になっているので、購入するマンションも共有名義のことが多いし、その結果家事や子育ても共同作業が当然となっており、平均的な日本の家族世帯よりは「ややフランス寄り」な部分はあると思うし、それは良いことだとも思う。

 

 ただ、私を含む50代以降の多くのシニア世帯では、家族がそれぞれ自分だけの「付き合い」を持っている。具体的には夫は「仕事」、妻は「地域」、子供は「学校」であり、これらの関係が他の家族と「共有」されることは基本的に少ないだろう

 

 仕事一筋だった定年後のサラリーマンの居場所がなくて、何をするにも「妻」に付いていくので「濡れ落ち葉」などと揶揄されることもあったが、最近はいわゆる「定年本」が多数出版、読まれたこともあって、男性が自分なりの生き方を探し、行動することは珍しくない。

 ただその新たな生き方の矛先が「妻」に向かうこともあろうが、多くは「孤独を楽しむ」か「趣味のサークル等に入る」などだろう。

 

 もしかすると「和」を尊ぶ日本というイメージが、フランス人の著者にはあるのかもしれないが、この「和」の対象は、サラリーマンにとっては主に職場や友人などとの人間関係であり、妻や子供などではないだろう。

 決して良いことだとは思わないが、男性の側に「直接言ったり行動で示さなくても分かってくれる」という認識があるのは否めないだろう。だからこそ「家庭サービス」というフランス人にとっては「驚き」の言葉が日本には存在するのだと思う。

 

 個人的には、記事を読んでフランス人は「恋愛・結婚」に積極的な半面、「失恋・離婚」も多いのではないかと勝手に想像していたのだが、Webサイトにあった「主要国の離婚率の推移」を見ると、フランスは1985年頃からほぼ横ばいなのに対して、日本は1990年以降に急上昇したが、2003年頃を境に減少に転じている。

 別のサイトの資料「世界の離婚率ランキング」では2017年時点でフランスの1.97に対して、日本は1.77と大差ないレベルだ。

 この辺の事情は、フランス人は「交際」しても「結婚」しない傾向が強いという状況を解説した、東洋経済オンラインの過去の記事「フランス人の結婚観が実は『超堅実なワケ」にも、詳しく書かれているが。

 

 記事では最後に「個人レベルでも限りある時間とエネルギーをどうやって配分するか、(中略)アムールを含めて人生をより豊かで充実したものにしてください」としているが、若い世代は「仕事」と「プライベート」を区別する意識が強く、その分家庭への時間的な配慮は増加していると思う。

 

 問題はやはり、中高年のサラリーマン層だろう。いい年になって「夫婦仲良く」と言われても、共通の話題も少ないだろうし、何よりそれまでの経緯もあってコミュニケーションの取り方が分からない男性も多いのではないか。

 

 無理やり「家族サービス」に目覚めて苦労するよりは、現状の生活に特に支障がないなら、あえて特別な行動をする必要もないような気がする。

「無理」な気遣いは長続きしないし、ストレスになるのは確実だからだ。