如月五月の「ちょっと気になる話題、情報を斜め視線から」

ちょっと気になる話題、情報を斜め視線で解説

オワコンの百貨店業界、生き残り策は「不動産賃貸」か

もはや「小売り」での事業継続は不可能 

 百貨店(かつてはデパートとも呼ばれた)に対して、世間はどのようなイメージを持っているのだろうか。

 私の見解を一言で言えば「完全に終わったコンテンツ(オワコン)」である。

 

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 近年、百貨店が店舗を閉店、縮小する動きが続いているが、この動きの発端は1999年の東急百貨店日本橋店の閉店から始まったものだと思っている。つまり20年以上前から百貨店という小売り形態の衰退は始まっていたのだ。

 

 百貨店が衰退した原因としてはいくつも指摘されているが、個人的には「休日に家族で百貨店に行く」という昭和的な習慣が廃れたことが大きいと思っている。私が子供だった頃は特に目的がなくても、家族で催事場などの店内を徘徊し、最上階のレストランでお子様ランチを食べて、屋上の小さな遊技場で遊ぶのが楽しみだった。

 

 つまり百貨店は「人が集まる場所」という位置づけだったのだが、日用品の買い物をするなら「大型スーパー」、ブランド品なら「専門店」、遊ぶなら「テーマパーク」に向かうようになり、百貨店という名前の示す「何でもあり」という看板が「中途半端で何もない」という弱みに転じてしまったのだ。

 

 私の記憶を辿ると、百貨店の売り場からまず「家電品」が消えた。これはヨドバシカメラなど量販店の台頭の影響が大きい。次いで「屋上」の休憩スペースがコスト削減でなくなり、「食堂」も閉店し、個別のレストランに置き換わった。

 これらはすべて専門性の欠如が原因だろう。現在、消費者があえて百貨店に行く理由として大きいのは、地方の名産品などを扱う地下の食品売り場いわゆる「デパ地下」ぐらいではないか。しかも、このデパ地下も結局は食品専門店の集合体である。

 

 今後、百貨店が「小売り」として生き残るのは困難だろう。すでに一部の百貨店が実践しているが、都内の好立地の店舗は「不動産賃貸業」をメインに業態を転じている。物品を販売するのであれば仕入れ、売り場・売り上げの管理、返品などの業務に、人も時間も取られるが、売り場を賃貸に出せば、モノは売れても売れなくても賃貸料が毎月入ってくる。経営の安定度は大きく上昇するはずだ。

 

 この手法は朝日新聞など全国紙の新聞社でも行われていて、長期低迷が続く販売部数の落ち込みによる収入減を保有する不動産物件の賃貸収入で補っている構図になっている。

 

 他にも百貨店には逆風が吹いている。まずは「お歳暮」「お中元」の減少。会社の上司や仲人などお世話になった送っていた慣習が縮小している。ネットには出所は不明だが「お歳暮市場規模がなんと30年前に比べると激減(7割減)している」という情報もあった。

 

 次に大きいのが、ネット通販の台頭。実はどこの百貨店もチラシを配布して電話等による通信販売はかなり以前から取り組んでいたのだが、実店舗での売り上げへの影響を警戒したためか、積極的ではなく売り上げに貢献したとは言えない状況だった。この間にAmazonなどのネット通販に市場を席巻された。

 

 最後に指摘したいのが、オリジナル商品の欠如。先に述べたお歳暮などは「一流百貨店」の包装紙がモノを言ったが、この慣習自体が縮小している。私が社会人の新人だったころは「スーツの仕立ては三越」といった暗黙の了解があったが今は聞かないし、そもそもスーツ自体のニーズが減少している。

 

 という訳で、「小売り」としての百貨店業界の将来は明るいものではないのだが、三越、伊勢丹といったブランドは展開次第で今後も生き残ることは可能だろう。

 

 日本の百貨店を代表する三越日本橋本店のすぐ近くに、1699年創業の「にんべん」本店がある。この「にんべん」は当初は鰹節の販売・卸が中心だったが、現在では派生商品の「つゆの素」の売り上げが占める比率が高いと聞く。同じく日本橋の老舗で刃物を手掛ける創業228年の「木屋」も職人向けの包丁だけで商売をしている訳ではない。

 

 百貨店は都内の好立地の店舗を除けば、地方を中心に今後の閉店ラッシュが続くと思われる。過去の「モノ」を置けば売れる時代はとうに過ぎ去り、今は「モノ」を置いても工夫しないと売れない状況。車社会に対応してきた幹線道路沿いのアウトレットなどのショッピングモールですら立地次第で「時代遅れ」になりつつあるのが現状だ。

 

 かつて百貨店への対抗意識からダイエーの創業者中内氏は「百貨店は(小売りではなく不動産の)大家だ」と言ったようだが、くしくも現状はその方向に向かっているように思える。

読書しない人が増えている「理由」は5つだけではない

「若者の本離れ」がこんなにも加速した5つの理由(東洋経済オンライン)

角田 陽一郎 : バラエティプロデューサー

 

 「最近の若者は本を読まない」――。この文章から始まるいわゆる「本離れ」の理由について分析した記事「『若者の本離れ』がこんなにも加速した5つの理由」が3月1日の東洋経済オンラインに掲載された。

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 この現象自体はかなり以前から各種メディアで伝えられていて、目新しいテーマではない。例えば2018年2月26日の日本経済新聞電子版では「大学生『読書時間ゼロ』半数超 実態調査で初」と報じられている。これは当時、結構話題となった。

 

 だが東洋経済オンラインの記事の面白いのは著者が、実際に「本を読まない」理由を、インターネット動画界隈で活躍する20代半ばの起業家で、頭もいいがほとんど本は読まないと(著者が言う)いう人に、直接インタビューしている点だ。

 アンケート調査などで大まかな傾向などは分かるが、個々の持つ本離れの背景を具体的に聞き出すという視点が新鮮だし、会話のやりとりもメリハリがあって良い。 

 さて詳細は記事を読んで頂くとして、「本を読まない理由」を著者は以下の5つを挙げている。 

      1.「つらいから」  

      2.「時間がもったいないから」

      3.「楽しくないから」

      4.「書き手が知らない人だから」

      5.「ネットのほうが便利だから」

 

 これらの理由から、著者は「読書のよさをいくら言われても、本自体にアクセスすることが面倒なのです」と、本離れを解釈し、分かりやすい身近な例として「旅好きな人に『海外旅行は楽しいですよ」と言われても、成田空港に行くのが面倒だからという理由で行かないような』ものと説明している。

 

 記事全体の印象としては、各種アンケート結果の具体的な回答例を見たような「なるほど」と思える内容だった。ある程度予想はしていたものの、実際に著者の言う「仕事はできるが本を読まない人」の本音を聞けたのは参考になった

 

 理由として挙げられた5つだが、個人的には「つらい」「面倒」「不便」という項目と内容から考えて、以下の3点を追加したい。

 まず、読書はこちらからアクセスする「攻め」の姿勢が不可欠だが、ネットやゲームはどちらかと言えば「受け身」の姿勢で対応できるという点。

 しかも本の場合は、字面を追うだけでは読んだことにはならず、自分なりに咀嚼する必要がある。一方、ネットニュース等はすでに分かりやすい形に集約されているし、ゲームも初心者であればチュートリアルや親切な人からアドバイスをもらえることも多い。

 

 次に挙げたいのは、読書にはおカネがかかるということ。多くの単行本は2000円以上するし、新書でも1000円近いのが現実。数冊買えばすぐに1万円近い出費となる。図書館では新刊は人気で順番待ちだし、そもそも身近に図書館がある人ばかりではない。

 一方、ネットは情報料という点からはほぼ無料だし、スマホゲームも課金しなければお金はかからない。総務省統計局の「家計調査報告(家計収支編)平成28年平均速報結果の概要」によれば、可処分所得は実質0.4%伸びているが、消費支出は実質1.7%の減少となっており、消費者の「不要なモノにはおカネをかけない」という傾向は明らか。

 しかも消費の内訳を見ると「書籍・他の印刷物」の前年比実質増減率はマイナス3.6%と大きい。本離れは相対的に割高な本を消費者が敬遠しているためだろう。

 

 最後に指摘したいのは、ペーパーレス化を推進する時代の流れに追いついていないこと。公益社団法人 全国出版協会・出版科学研究所の調査によれば、2018年の出版市場は全体で3.2%の減少で。紙市場は5.7%減の1兆2,921億円に対して、電子市場は11.9%増の2,479億円となっている。電子市場が伸びているとはいえ、その大半はコミックに依存しているのが実態。「本」市場全体の規模は減少傾向のままだ。

 個人的には、現在「紙」も「電子」も本の価格はほぼ同一だが、これを制作費用に合わせて差別化しないと、市場全体の地盤沈下は止まらないと思う。

 

 いずれにせよ、人はどうしてもより「分かりやすい」「安い」「アクセスしやすい」ものに流れていくもの。ネットのまとめサイトや動画、スマホゲームなどが気軽にアプローチできるように熾烈な競争を繰り広げているのに対して、紙媒体を中心とする出版業界が既存の販売方式(出版社⇒取次⇒書店)に依存して、あぐらをかいてきた側面は否めない。

 本がそれ自体の売り上げから利益を出しているのに対して、ネットは広告から、ゲームは課金で稼ぐという違いはあるにせよ、このままでは「読書」という行為が、一部の愛好家よる「贅沢な趣味」として扱われる時代が来るかもしれない。

 

 

女子の一般職に見直し機運、総合職との区分は無意味に

早慶女子があえて「一般職」を選ぶ根本理由(東洋経済オンライン)

橘木 俊詔 : 京都女子大学客員教授

 

 商社や銀行など大企業の「一般職」と言えば、中堅の女子大などが多くを占めるいわば結婚までの「腰掛」的なイメージを持っていたのだが、最近では「総合商社の一般職は、以前多かった女子大出身者ではなく、早慶などの超高学歴女子が大半」であるとする記事「早慶女子があえて『一般職』を選ぶ根本理由」が2月28日付の東洋経済オンラインに掲載された。 

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 著者は京都女子大学客員教授の橘木俊詔氏。恐縮ながら名前を存じ上げていないが、内外の著名な大学で学び、各官庁の研究員を経て、現職に至っている。専門は労働経済学、公共経済学で、著作は100冊以上あるそうだ。

 

 記事では、以前は「(入学難易度の高い大学出身の女性が)総合職を選択して受験してみたが採用されなかったので、仕方なく一般職で採用された、という人が多かったが、最近では意図的に最初から一般職の選択をする」ことが増え、総合商社では「一般職の70~80%が早慶女子が占めており、残りの20~30%も難関大学の私立大、すなわち上智、MARCHなどの大学の女子学生で占められる」と解説している。

 

著者はこの理由として以下の5点を挙げている。

  1. 一心不乱に働いて出世するよりも人生を楽しみたいとする人が増加した
  2. 定型的な仕事が非正規労働者で代替され総合職と一般職の違いが小さくなった
  3. 転勤だけを強要しない地域限定総合職の創設
  4. 働くことは結婚・出産までのことと考え、あえて進んで一般職を狙う
  5. 転勤のない一般職を当初から志願

 

 個人的には、1が最も大きな理由で、2がその次、残りは「結婚」「出産」などの家庭的な事情によるもので、過去からニーズ自体はあったので、現在の理由としては相対的に重要度に変化はないと思う。

 

 まず、1つ目の「仕事」よりも「人生」を楽しむという選択だが、これは女性に限らず男性の間でも増えていると思われる。現在も入社時からがむしゃらに働いて社内での出世を目指す人も多いが、一方でプライベートの時間を重視する人も増えている。

 ここで言うプライベートとはいわゆる「趣味」「休暇」などに限らず、スキル向上を意図したセミナー参加や資格取得なども含まれる。つまり「会社」と同じぐらい、もしくはより「個人」の将来を案じている

 

 名だたる大企業が終身雇用の廃止の意向を示し、リストラの対象は40代にまで低下、しかも業績は絶好調でも高給の中年以降の社員を切り捨てるのが一般化するなかで、若者が会社よりも自分の将来を最優先に考えるのは当たり前だろう。すでに「ザービス残業」という言葉はまともな企業では廃れている。

 

 これを後押ししているのが理由の2.にもつながるが、政府の働き方改革である。同一労働同一賃金をお題目にして、正社員の住宅手当、家族手当の削減はこの4月から一気に始まる。昨年の残業規制に続いて、総合職を含む正社員にとっては収入減に直結する。であれば最初から相対的に責任の大きい仕事が少ない「一般職」を選択するのは自然な流れだろう。

 

 というか、今後の大企業の新卒採用を予想すると、男女を問わずごく一部の幹部候補生と残り大部分の一般職員という2職種に集約されるのではないだろうか。

 

 記事にもあるが、補助的・定型的な業務はすでに非正規採用で対応しているうえ、今後AI機能の進展などでRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)によって現在正社員が担当している業務も相当部分が、自動化されるのは確実。総合職・一般職といった区分自体が意味を持たなくなるだろう。

 

 ここからは私の未来予想だが、今は「現在のお仕事は?」と聞かれた際に、会社務め(特に大企業)のサラリーマンは「〇×会社です」と社名で応対するのが一般的だが、これは通用しなくなる。おそらく「金融系のシステムエンジニアです」とか「中国相手の輸出関連です」といった具体的な職種が問われる時代になるだろう。

 

 自分のキャリアデザインを会社に丸投げしてきた40代後半以降の世代には厳しい世界だが、記事の「一般職希望の女子」に限らず、近年の一流大学の学生はすでに「名」よりも「実」を取りに動いている。

 採用側も、「会社単位」で「新卒を一括採用」する現在の制度から、「プロジェクト・事業単位」で「必要な人材を随時採用」に変わっていかざるを得ない時代はすぐそこまで来ていると思う。

 

株式市場を「目の敵」にする慶大准教授の理解しがたい暴論

ついに株式市場の「化けの皮」が剥がれ始めた(東洋経済オンライン)

小幡 績 : 慶應義塾大学大学院准教授

  

 コロナウイルスの感染拡大で世界の株式市場が揺れている。24日のニューヨーク株式相場のダウ平均が前週末1031ドル下げたことで25日の日本の株式相場も急落、一時日経平均は同1000円以上下げた。25日の米国相場も大幅続落したことで、今日も下げ基調になる可能性は高い。

 

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 こうしたなか26日付けの東洋経済オンラインに「ついに株式市場の『化けの皮』が剥がれ始めた」というタイトルの記事が掲載された。著者は慶應義塾大学大学院准教授の小幡績氏。専門は行動ファイナンスとコーポレートガバナンスで、1992年東京大学経済学部首席卒業したとのこと。株式投資関連の著書もあるようだ。

 

 この記事について感想を言えば、大学の准教授とは思えないほど、株式市場を敵視し、その相場形成に対して異常なまでの感情的な反応なのである。過去に株式市場とどのような経緯があったのかは知らないが、とにかくその常軌を逸した暴論の勢いが凄いのだ。

 

 まず、これまで株価が下がらなかった理由として「『押し目買いのチャンス』、『一時的な不安だからファクトを見れば買いだ』、という『嘘の情報』が流れたのだろうか」と指摘している。

 ここで言う「嘘」という決めつけが大学教授らしくない。「買い」かどうかは投資家自身の個々の判断であり、「嘘」かどうかは投資家が決めることだ。押し目買いだったかどうかも将来の結果として判別可能な話である。使うならば言葉としては「未確定」とか「不確実」といった表現が妥当だろう

 

 次に、「債券市場は、株式市場が理屈抜きのギャンブラー、狩人が多いのに対して、債券市場は合理的で理屈っぽい分析的な投資家が多い」というのも偏った見方だ。

 株式相場には証券会社を中心に、個別銘柄や業界のアナリストや相場全体を見るストラテジストといった分析のプロが多数いて、日々数値を駆使したレポートを作成しているのを知らないのだろうか。

 債券市場では、過去に米ソロモン・ブラザーズの東京支店の債券トレーダーだった明神茂氏は一時年収7億円を稼ぎ、長者番付に登場したし、JPモルガンの東京支店長だった藤巻健史氏も国債のディーリングで巨額の利益を出した。どちらも大きくポジションを取る文字通りプロの「ギャンブラー」である

 

 あえてその違いを表現するなら、債券市場に比べて株式市場に占める個人投資家の比率が高いと言うべきだろう。個人トレーダーには確かに日計り商いを繰り返す「イメージ通り」の投資家も存在する。もっとも比率的にはNISAを使った中長期の投資も一定比率存在するはずだ。

 金融庁のNISA・ジュニアNISA口座の利用状況調査 (2019 12 月末時点(速報値)によれば、NISA(一般・積み立て)の口座数は1365万もあるのである。

 毎年期末になると雑誌などで「株主優待」「高利回り」の銘柄特集を組むのも、中長期の資産形成に関心のある読者向けの記事のはずだ。

 

 記事では「より重要で、本質的、直接的な理由は、原油、為替はほとんどが先物市場であり、株式(部分的に債券も)は現物市場が少なくとも半分を占めるからである」としているが、この説明の意図もよくわからない。「現物でないからポジションの整理、転換は簡単である。だから、危機が来れば直ちに危機に合わせてポジションをチェンジすることができる」とのことだが、これは著者のいう「ギャンブラー」に近い存在ではないのか

 

 また最後に「株式市場は信じず、為替市場や金利市場や、原油市場を注視する」ことを勧めているが、これも一方的な見方だ。株式相場は「半年先の景気を見通す」と言われることがある。短期的なブレはあっても中長期では業績を反映した相場になっていることは過去の相場が証明している。

 

 しかも「為替市場や金利市場や、原油市場を注視」と言っているが、これらの市場が先物で占められていると先に述べていることを考慮すると、「個人投資家も先物相場に参入すべき」という結論になるのだが、リスク許容という点でこれははななだ疑問である。

 「注視」とまで書くなら、FX(外国為替証拠金取引」でレバレッジを1倍にして投資(実質的に現物と同じ)するとか、原油のETFを投資対象にするといった個人投資家向けの投資商品を紹介すべきだろう。

 

 現在のコロナウイルスに端を発する世界景気への影響が読み切れない以上、株式相場の下落がいつ、どこまで下がるのかは誰も確実な予想はできないはずだ。その意味では外為も債券も同じ金融商品である。

 あえて「株式」に特化して、批判の矛先を向ける著者の意図が分からない。

 

声優という職業を「絶対に」ススメないベテラン声優の本音

大塚明夫「声優養成所を過信する若者の危うさ」(東洋経済オンライン)

大塚 明夫 : 声優/役者

 

 大量のアニメが制作され、人気作品も増えるなか、声優を目指す若者は多いようだ。こうした傾向に警鐘を鳴らす記事「大塚明夫『声優養成所を過信する若者の危うさ』」が2月24日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

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 記事を書いた大塚氏は現役声優で、1959年の生まれというから今年62歳となるはずだから大ベテランである。ちなみに大塚氏は2015年に「声優魂」という本を出版していて、声優業界の実態を明らかにしている。

 

 東洋経済オンラインにも過去に5本の記事を投稿していて、参考までに見出しを引用してみると、

              2020.2.16 大塚明夫「声優を夢見る若者が陥りがちな失敗」

              2020.1.25 大塚明夫「声優として生き残れない若者の特徴」

              2020.1.11 大塚明夫「プロ声優と素人を分かつ決定的な差」

              2020.1.  4   声優に憧れる人が知らない「厳しい収入事情」

              2019.12.30 大塚明夫「声優の大多数が仕事にあぶれる理由」

とまあ、見出しを見るだけで「声優」という職業の厳しさが伝わってくる

 

 今回の記事のテーマは「声優養成所」。結論から言えば「養成所に行ったから声優になれるというのは大いなる幻想」ということだ。

 

 その理由として、声優養成所は「基本的なことは一通りできる役者」を育てることが目的で、業界が必要としている「個性」のある声優の育成には関心がないことを挙げている。

 簡単に言い直せば大学受験の予備校と同じで、1対1よりも1対多数でより多くの受講生に教えた方が効率よく稼げるからということだ。実際に大塚氏も記事で「声優学校や養成所というのは非常に儲かる商売」と明かしている。

 

 ではなぜ声優志望者が養成所に通うのかという話になる訳だが、大塚氏は「より安全で確実な道はある」と思いたい方がそれだけ多いからだ、と解説している。

 

 ここで想像できるのは、声優志望者が「調理師」「美容師」のように、専門学校に行けば「資格」(のようなもの)を取れて、仕事にありつける可能性が高いと思い込んでいる可能性だ。現実には「声優」などという資格は存在しない訳だが、専門学校に行ったことで、声優になる近道というか王道を歩んでいると考えているのだろう。

 

 これも個人的な想像だが、おそらくアニメ好きの高校生が登場人物のものまねを披露してみたら、友人から「イケてる」などと囃されて、その気になってしまったという事例もあるだろう。また、その大多数は他にやりたい職業もないし、大学進学にも魅力を感じていないことが、声優養成所へと後押ししている可能性もある。

 

 私が通院している診療所にも「声優」が本業の女性が受付のアルバイトをしているが、「声優だけではとてもたべていけない」と言っていた。ちなみに女性の場合は「アニメの男の子役」や「PCゲームのヒロイン」での需要もあるが、男性声優はそれも少ないので「さらに悲惨」だそうだ。

 2019年12月の記事にもあるが、声優業は「300脚の椅子をつねに1万人以上の人間が奪い合っている状態」だそうだ。実力とコネが重要視される業界で、この競争は熾烈なモノだろう。

 

 私の知り合いの子供(男子高校生)も声優を目指しているそうだが、親は大塚氏の記事を読んで反対しているのだが、本人は自分には才能があると信じて、説得には耳を貸さないらしい。

 では、この「才能」というのが何かと聞けば、「好きなアニメの主人公役の声がそっくりだから」とのこと。この業界に浅学な私でも声優業が、2つや3つの登場人物のマネできるぐらいで食っていくことは無理なことぐらいは分かる。少なくとも10数種以上の個性的な声を自由自在に使いこなせなければ、特に若手には仕事は回ってこないと思う。

 

 もちろん声優養成所出身で活躍している有名声優さん(東山奈央芹澤優など)もいるし、養成所に通うことがまったく意味がない訳ではないだろう。ただ、「仕事にありつけるかどうかはあくまで本人の実力次第」のはずだ。

 

 フランス人の俳優アランドロンの吹き替えで有名だった故野沢那智氏は現役時代「声優になりたい人はまずは役者を目指すべき」とラジオの深夜番組で言っていた。その背景として「舞台は演技でもカバーできるが、声優は声だけですべてを表現する難しさ」を指摘していた。もっとも現在の声優に求められるのは、加えて歌のうまさやファンとの交流なのかもしれないが。

 

 大塚氏は「声優界もいっそ、演歌歌手や落語家の世界のように徒弟制度を取り入れたほうがいい」とも述べているが、現実には弟子入りを申し込んでくる若手声優はまずいないそうだ。

 

 記事では最後に「声優という仕事自体を私は絶対おすすめしません」と断じている。ただ、一般論としては若者がやりたい仕事を自分で見つけて目指すのは決して悪いことではないし、むしろその積極性は評価すべきだろう。

 ただし、目標とする業界(この場合声優)の実情を詳しく調べて、先輩たちがどのように仕事を請け負い、収入はどの程度なのかなどを知っておくことは不可欠だろう。これは声優業界に限らない話ではあるが。

 親御さんも、本人の「声優になりたい」という意志を頭から否定するのではなく、冷静に業界の実情を知らしめるように努力すべきだとは思う。

英BBCは課金制へ、NHKも「スクランブル化」は必然の流れ

BBCの「受信料廃止」はどこまで現実的なのか(東洋経済オンライン)

小林 恭子 : ジャーナリスト

 

 221日付けの東洋経済オンラインに「BBCの『受信料廃止』はどこまで現実的なのか」というタイトルの記事が掲載された。

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 内容を要約すると、日曜紙のサンデータイムズ(216日付)の記事を引用し、「イギリス政府はBBCのテレビ・ライセンス料(日本のNHKの放送受信料に相当、以下「受信料」)を廃止し、希望者のみが視聴料を払う課金制(サブスクリプション)の導入を視野に入れた見直し作業を始める意向」との報道をもとに、現地での反応を中心にレポートしている。

 今回は、BBCと同様に国営放送であるNHKについて日頃から思っていることを書いてみたい。

 

 まず個人的な見解を先に述べると、NHKの受信料の強制的な徴収制度は直ちに廃止し、見たい人だけが契約する方式に変更、契約者のみが番組を視聴できるスクランブル方式を採用すべき、ということだ。

 

 これは昨年話題になったN国党NHKから国民を守る党)の意見と同じなのだが、私自身は30年以上前から主張しており、受信料契約締結を求めるNHKの担当者が自宅にくる都度、「見たくない人にまで支払わせる制度自体がおかしい。スクランブル化すれば済む話」という論法で「撃退」してきた。

 それでもしつこく食い下がる人には「文句があるなら裁判になっても構わないので訴訟しろ」とまで言い切ったことがある。実際に訴えられたことはないが。

 

 ただし、誤解のないように言っておくと、現在は受信料を自動引き落としで支払っている。というのも平成29126日に最高裁判所大法廷が判決の裁判趣旨で「日本放送協会の目的にかなう適正・公平な受信料徴収のために必要な内容の,日本放送協会の放送の受信についての契約の締結を強制する旨を定めたものとして,憲法13条,21条,29条に違反しない」と結論付けたためである。

 

 それまでは裁判で決着していないとの理由から支払いを拒絶してきたが、判決に不満があるとはいえ「最終決着」した以上、国民の義務として支払わざるを得ないとの判断からだ、悪法であっても確定すれば従わざるを得ない。

 ということで30年以上支払いを拒んできた者としては忸怩たるものがあるが、その後徴収員が人の家のポストに無断で受信契約者のシールを貼っていたのには「怒り」を通り越して「呆れた」。個人の所有物に勝手に加工するのを問題視しない非常識ぶりに、「これは相手にするだけ時間のムダ」と悟った次第である。

 

 本論に戻るが、そもそもNHKが根拠とする放送法自体が昭和25年という69年も前に制定されたこと自体がすでに「時代遅れ」だと言いたい。当時はテレビ自体がまだ一般家庭に普及していなかったので、所有者全員を徴収対象とするのは問題ではなかったのだろうが、現代は全世帯に普及するのを通りこして、テレビを見ない人が増えているのである。

 さらに言えばNHKは、携帯電話、スマホやカーナビでもテレビが視聴できれば課金の対象に対象にする意向のようだが、こうなるともやは「時代錯誤」も甚だしいレベルだ。自宅で契約していれば二重契約する必要はないらしいが、どうやって個別に契約の有無を区別、判断するのかその方法を聞いてみたいものである。

 

 スクランブル化についてのNHKの見解は、簡単に言えば「一見合理的に見えるが、NHKが担っている役割と矛盾する」ということだ。さらにWebサイトでは「スクランブルを導入した場合、どうしても『よく見られる』番組に偏り、内容が画一化していく懸念があり、結果として、視聴者にとって、番組視聴の選択肢が狭まって、放送法がうたう『健全な民主主義の発達』の上でも問題があると考えます」としている。

 

 もっともらしい意見に見えるが、まず「よく見られる番組に偏り」というのが手前味噌である。そもそも公共放送としてしっかりとした自覚があれば、このような考えにはならない。番組の編集方針を明確に定めておけば済む話である。

 さらに言えば、一介の放送局ごときが「健全な民主主義の発達」などと偉そうに宣うこと自体が、ちゃんちゃらおかしい。自分たちを何様だと思っているのか勘違いも甚だしい。

 

 また、「緊急災害時には大幅に番組編成を変更し、正確な情報を迅速に提供する」という重要性は理解できるが、これはスクランブル化とは無関係のはずだ。緊急時にはスクランブルを外せば済むだけの話である。そこに費用がかかるというのであれば、災害対策費として政府や自治体が負担すればいいだけだ。

 

 スクランブル化のメリットは他にもある。最も大きいのは戸別訪問で、訪問集金は平成20年に廃止されたが、未契約者への訪問活動などは継続されている。こうした業務に関わる人員がすべて不要になれば経費が大きく削減されるのは間違いない。全国に現在どの程度の人数がいるのかすぐには調べられなかったが、数百人程度といったレベルではないだろう。

 

 NHKを視聴したい人が受信料を支払い、見たくない人には視聴できないようにして何が問題なのだろうか。NHKには「受益者負担」という概念が欠けているとしか思えない。

 冒頭の英国のBBCの受信料制度が今後どのような経緯をたどるのか、そしてNHKにどのように影響するのか、しっかりと注視していきたい。

 

東洋経済オンラインが2月末でコメント機能を休止--快適な環境の提供が目的?

コメント機能を休止の原因を深読みしてみた

 

 恥ずかしながら今週になって気が付いたのだが、東洋経済オンラインが2月29日までで「コメントサービス」を休止すると2月12日に発表した。   

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 この「コメントサービス」は同サイトに掲載された記事に対して、思うことをコメントすることができるというもの。注目されたり話題となった記事には数十件のコメントが付くことも多く、私自身少なくとも200回以上はコメントしてきたので、サービス休止は残念ではある。

 

 このサービスは2016年に始まったのだが、当初は自由に誰でも投稿者名を「No Name」として匿名で発言できた仕様だったが、昨年機能制限が強化され、投稿者が登録した「名称」でしか投稿できなくなった。私自身は「如月五月ブログ」という名前を使っている。

 まあ、それまではそれこそ「感情的なワンフレーズ」の投稿も珍しくなかったので、ある意味「正常化」のための効果的な規制だったと今でも認識している。

 

 その後はだいぶ投稿内容も落ち着いてきたように思えていたのだが、昨年の規制から一年も経たずに「休止」というのには、かなり驚いた。どのような事情があったのか不明だが、気になるのは発表資料にある「読者の皆様に快適な利用環境を提供するため」という文言。この言葉から推測するに、「快適でない利用環境」が存在したことが読み取れる。

 

 東洋経済に休止の理由について問い合わせても「発表資料の通りです」という回答しか得られないのは確実なので、ここは200回以上のコメントを投稿し、他者のコメントもほぼすべて読み、自分のブログのネタとして100回以上引用してきた者として、独自の視点でサービス休止に至った事情を推測してみたい。

 

 まず考えられるのが、コメントの管理に想定以上の負荷がかかり、それに見合った効果が得られなかったということ。

 登録制になったことで悪質や不要なコメントは減っただろうが、記事に無関係だったり事実誤認によるコメントや二重投稿などのチェックはAI化されたはずだが、最終的な判断は人間になっていたはず。

 私自身、何件かのコメント(内容はごく真っ当なモノ)が投稿しても弾かれてしまうので理由を聞いたことがあるが、回答は「コメント本文の『縦に並んだ文字列』が排除対象のキーワードになっていたと説明を受けたことがある。この作業を含めておそらく現場のコメント管理の実務はかなりの負担だっただろう。

 

 次に考えられるのが、広告主及びその関係者からのクレーム。私自身は記事の内容に応じて是々非々でコメントするのだが、これらのなかで私を含めたコメント投稿者の指摘(内容が妥当かどうかは別にして)が、広告主の怒りにつながり、東洋経済社内の編集部門と広告部門で揉めた可能性がある。

 事実に基づいた辛辣なコメントは読者にとっては有益だと思うし、東洋経済オンラインの間接的な評価とページビューの増加に貢献するはずだが、広告主にしてみれば当然ながら「面白くない」はず。

 

 これは個人的な感想だが、昨年来の傾向として堀江貴文氏やディビッド・アトキンソン氏など有名人の最新の著作紹介を兼ねたインタビュー記事が増えたように感じていた。

 本人の生の声を読める点で個人的には面白かったのだが、コメント欄を見ると、賛否両論とはいえ著者の考え方自体を否定するようなコメントもあり、広告部門を経由した出版関係者からの「反響」には編集部も対応に苦労したとは思う。どちらも著名人だけに「存在自体が気に入らない」的なコメントも見受けられた。

 

 一方、ライバル誌の動向を見ると、ダイヤモンドオンラインはコメント機能自体が存在しない。というよりもトップページにある面白そうな記事はすべて有料会員向けになっているので、編集方針として不特定多数によるコメント機能のメリットを感じていないのだろう。

 プレジデントオンラインは一昔前の東洋経済オンラインと同じように「No Name」でも投稿は可能だが、コメント数を見る限り「活況」とは言えない。しかも利用規約には、その他の制限事項として「プレジデントオンラインはコメント投稿サービスの提供を予告なく中止することがあります」とあるので、こちらも状況次第でサービス休止の可能性はある。

 

 東洋経済もビジネスである以上、コメントサービスのメリット・デメリットを総合的に判断した結果、休止という決定をしたはずだ。

 コメントを積極的に投稿、参考にしてきた者にとっては残念ではあるが、私自身は投稿者名に「如月五月ブログ」を使ってきただけに、あくまでブログへの誘導手段のひとつとして利用してきたという側面もある。

 個人のブログでの記事の引用については、引き続き事後報告さえすれば特に変更はないようなので、その意味では影響はそう大きくはない。現時点では他のWebサイトのコメント機能を利用する予定もない。

 

 最後に手前味噌になるが、私のコメントで最も反響と評価が大きかったのは昨年10月の記事「武蔵小杉をあざ笑う人々に映る深刻な社会分断」で、評価するが1190、評価しないが280で、今でもコメントの最上段に掲載されている。誤字が多いので恥ずかしいのだが、内容自体は結構核心を突いたものではないかと自負している。

 

 

恋愛をリスクと考える20代が急速に増えている現実

「交際経験がない」20代男性は約4割という現実(東洋経済オンライン)

リクルートブライダル総研

 

 20~30代の若者は、どんな恋愛をしているのだろうか?――私のような50代後半のサラリーマンには直接関係のない話だが、現代の若者の恋愛観を知るのには参考になる記事「『交際経験がない』20代男性は約4割という現実」が2月16日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

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 記事は、結婚情報誌サービス『ゼクシィ』を企画運営する株式会社リクルートマーケティングパートナーズにおける調査・研究機関であるリクルートブライダル総研が実施、分析している。リクルートというのが個人的にはやや引っ掛かるが、元データ「恋愛・結婚調査2019(リクルートブライダル総研調べ)」自体はまともな内容だと思えた。

 

 記事では、「現在恋人のいない人」が67.9%、この恋人がいない人たちが「恋人が欲しい割合」は56.2%で、逆に「欲しくない人」は20.7%となっていることの紹介から始まる。

 まず「現在恋人のいない人」についてだが、同社が前回2015年に行った同調査では、この比率は男性で80.3%、女性で67.1%だった。今回は男性が73.2%で、女性は67.1%だから、男性は7ポイント近く低下した一方で女性は変わらずとなっている。

 

 「恋人がいない人の割合は約7割」と書いているが、これは間違いではないが、「男性の恋人持ちが7ポイント近く増えた」ことに触れないのは、やや意図的な感じがしないでもない。まあ記事全体のトーンが「なぜ恋愛しないのか」だから仕方がないのかもしれないが。

 

 次に「恋人が欲しい割合」だが、これは前回の調査項目にはない。ここで記事は「欲しくない人」の方にスポットを当てて検証している。過去との比較ができないので傾向はわからないが、個人的な感想を言えば、「恋人が欲しい人」が過半数を占めるのは普通に考えて当たり前の話なので、「欲しくない人」を取り上げるのは妥当だろうし、結果への関心も高いと思う。

 

 では「恋人が欲しくない理由」だが、調査によれば「1人の方が気楽だから」「恋愛が面倒だから」「好きな人がいないから」が性別、年齢別ともにトップ3となっているのだが、これは合点のいく結果だ。

 記事では「自立をベースとした『個』の時代になった。またその中でも、恋愛は、自分だけでハンドリングできることは少ない」と見立てているが、これは正しい見方だと思う。

 

 また、今回の記事の特徴は、年代別に恋人が欲しくない理由のなかで、20代で突出して割合が高い項目に「交際するのが怖いから」ことを挙げている点。確かに40代が6.5%、30代が11.6%に対して20代は22.9%とその数字の高さは顕著だ。

 元資料のアンケート結果の方にも記載はあるが、これは若者の「リスク回避志向」であることは間違いなさそうだ。「経済的にも政治的にも自然環境的にも不安定さがある中で生きている年代にとって『安定』は価値である」というのは説得力がある。つまり恋愛によって、「面倒」で「気楽でなくなる」という不安定要因を避けるのは合理的な行動だ。これは年々進行する「非婚化」の一因のひとつでもあるだろう。

 

 記事では後半で本論ともいえる「恋人は欲しいが、今はいない」という人に焦点を当てている。この理由のトップ3は、

   1、出会いがないから(53.4%)

   2、異性との出会いの場所がわからないから(35.7%)

   3、異性に対する魅力に自信がないから(32.5%)

となっている。

 

 この傾向について記事では「昨今、婚活サービスが急激に拡大しているのは、このような状況の中、自分の条件で効率的に相手を探し、出会える機会を提供している仕組みが広がったことが背景にあるだろう」と分析しているが、やや自社メディア「ゼクシィ」を意識した我田引水的な側面は否めないが、この「利便性の向上」が寄与している傾向があるのは確かだとは思う。

 

 これに続く内容は「恋人が欲しい人は具体的に何をすればいいのか」というもの。結論を引用すれば「自律的に自ら行動して出会いをつくりにいくことがカギ」ということなのだが、その後に「昨今マッチングアプリや婚活サービスなどもかなり充実。今や4人に1人が婚活サービスの利用経験があるという調査結果も出ている」というのは、どうにも婚活ビジネスへの「お誘い」に見えてならない。

 そもそも、今回のテーマは「恋愛」であって、「結婚」ではないはず。「婚活サービスの利用経験」を引き合いに出す時点で、論点がズレているし、意図的なモノを感じる

 

 以上から私の結論をまとめると、アンケート結果から参考になったのは、男性は恋人のいない人は減っているということ、そして恋人が欲しくない理由が「恋愛」を煩わしいものと考える傾向に変化がないこと、若い世代は恋愛をリスクと捉えていること――3点だ。

 

 これに加えて私自身の感想を言えば、「個」を重視する時代という指摘は間違ってはいないが、ここで言う「個」は「孤立」「孤独」のようなものではなく、「個性」を生かしたいという意識だろう。

 実際に、世の中の風潮を見る限り、「おひとり様」も志向も根強い一方で、趣味やライフスタイルに合わせた小規模な「集まり」も人気を集めている。

 またその実態も、「恋愛」を意識したものではなく、気の置けない「友人」としてコミュニケーションを楽しんでいるように思える。気の合う仲間と共通の話題で盛り上がればいいのであって、そこに「恋愛」は必要不可欠なものではないのだろう。

 

 記事では最後に「普遍的に大切なことは、恋愛を楽しんで相手との時間をかけがえのないものにすることだろう」と結んでいるが、20代が「恋愛をリスク」と捉える傾向が強まっている中で、この言葉が若い世代の心に「突き刺さる」とは思えない。

 

 残念ではあるが、恋愛というリスクの回避⇒恋愛経験の減少⇒非婚率の増加⇒少子化の進展、という流れは「加速」することはあっても「減速」することはないだろう。

 

メンタル強化には「公助」「共助」が重要というけれど・・・

佐藤優が説く「下品な人に心削られない働き方」(東洋経済オンライン)

佐藤 優 : 作家・元外務省主任分析官

 

 「知の巨人」とも呼ばれるほどの読書量で有名な作家で、元外務省主任分析官の佐藤優氏の「佐藤優が説く『下品な人に心削られない働き方』」というタイトルの記事が2月14日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

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 内容を要約すると、今や格差社会となった日本で「勝ち組」として成功しているのは、「特異な能力があるか、あるいは親の遺産を引き継ぎ、最初からスタートラインが違っているか、さもなければよほど図太く、図々しい人物」と指摘、なかでも「図々しい」ことが必要不可欠で、これを「下品力」と表現している。

 

 この「下品力」をもつ人が管理職として幅を利かしている会社組織の現状では、これに対抗して生きるには「自分自身の内面を強くしていくこと」「自分を取り巻く環境を変えていく」の2つが必要だと解説している。

 

 私の感想を言えば、「おっしゃることはもっともだが、対応できる人はすでに対応済で、問題はこの2点を実行しようと頭では理解できても、実際に行動に移せない人が大多数ではなかろうか」である。

 

 佐藤氏の言いたいことは理解できるのだが、「自分の内面を強くする」というのは、言い換えれば「他人の余計な干渉を受け入れない」ということで、これに必要な「自己規律」を確立、維持するのは結構しんどいと思う。

 あえて対応策を挙げれば、個人的には「読書」が最も手軽で効果的だと思っている。他人の考え方や発想を取り入れることで、自分の生き方の参考になるはずだ。読解力が必要ではあるが。

 

 まだ「自分を取り巻く環境を変えていく」の方が、現実的だろう。職場でストレスを感じているなら、異動願を出すか転職を検討するとか、上下や利害関係のない趣味などのコミュニティに入るというのもひとつの手段だろう。

 

 記事では最後に「強く生きるためには『自助・公助・共助』の3つが重要」としたうえで、とくにポイントになるのが「公助」と「共助」だと強調している。「公助」とは国や地方自治体のサービスで、「共助」は仲間同士で助け合うということを示す。

 

 これに対しては、やや同意しかねる内容だと感じた。というのも知り合いの消防団に40年勤め、消防団長になった人から聞いた話だが、自然災害の場合、現実に助けになるのは「自助7割」「共助2割」「公助1割」であり、あくまで「自分の身は自分で守る」が大原則だと言っていた。

 「自然災害への対応」と「人生を強く生きる」ことは別物との意見もあるだろうが、「生き延びる」という点では五十歩百歩である。やはり優先すべきは「周囲の環境」よりも「自身の変化」ではないだろうか。

 

 また、高齢化が進み、結婚しない人も増えた結果、一人世帯の比率は年々増加、総務省の「平成30年版情報通信白書」によれば、2040年には単独世帯の割合は約40%に達すると予測されている。自分の生活を自身で管理せざるを得ない時代はすぐそこにある。

 

 急増するセルフネグレクトによる孤独死などへの対応は喫緊の課題だが、行政がすべての世帯を常時把握するのは、民生委員の負担を考えれば現実には不可能だ。

 その観点からは「共助」「公助」も活用すべきではあるが、プライベートな個人の生活にどこまで踏み込めるのかは意見が割れるだろう。障がい者などを除けば、基本は「自助」で対応せざるを得ないはずだ。

 

 話はやや逸れるが、「他人と過去は変えられない」という言葉は、ストレスに悩む人がよく聞かされるフレーズだと思うし、私自身も常にこれを意識している。加えて個人的に意識しているのは「自分の価値は自分で決める」ということだ。

 この根底には「他人の評価で行動した結果、失敗した場合人のせいにすることになり、自身の存在価値を見出せなくなる」という危機意識がある。

  

 昨今の風潮を読むと、小泉純一郎内閣以降「自己責任論」があまりにも強まった反動で、「自己責任限界論」や「社会責任論」のような論調が見受けられるが、それ以前の日本があまりにも「お上の言うなり」になり過ぎていたのである。

 

 著者の言う「下品な人」になる必要はないが、「下品な人に囚われない品性」は、今後さらに重要になると思っている。

 

【書評】市民が市政、議会に関与する動きが広まっているという現実

自治体職員のための住民と共につくる自治のかたち―人口減少、無関心、担い手不足を乗り越えて―(第一法規)

相川 俊英 ()

 

 今回は、久々に自分の書いた「書評」を取り上げたい。もともと本ブログはAmazonに投稿した書評を転用することで昨年4月に始まったが、記事の中心は書評からその後東洋経済オンラインを中心とする記事への見解へと移っている。

 

 今回は初心に帰って、最近読んだ本「自治体職員のための住民と共につくる自治のかたち」の紹介をしたい。テーマは「住民参加型」の自治である。

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 私自身は数年前まで選挙や市政などにはほとんど興味はなく、市長や市議会議員の選挙で投票に行かないことも少なくなかった。

 ただ、役職定年を迎えて比較的時間に余裕でるようになったことで、どういう訳か地方自治への関心が急速に高まった。

 昨年の選挙では政治家としての信条に共感できる候補者への個人的なお手伝いもしたし(無事当選)、現在は市のとある審議会の委員も務めている。3か月ごとに行われる市議会も一般質問を傍聴するようになった。ここ数年で、議員、行政、議会への理解はだいぶ深まったように思う。

 

 今後、定年を迎えて「何か新しいことに取り組んでみたい」という人々が増えるのは確実であり、そのなかの一部の人は、市政や議会にアプローチするようになるだろう。

 なぜなら、自分とは全く関係のなかった分野に足を踏み入れることで、「まったく新しい世界」が見えてくるからだ。これが実体験した自分の見方だが、政治、行政の世界は想像しているよりも「ずっと新鮮で面白い」のである。

 

 さて、話を戻すと、今回取り上げる本のタイトルは「自治体職員のための住民と共につくる自治のかたち」だ。著者は地方自治ジャーナリストの相川俊英氏。地方自治をテーマとして全国各地を四半世紀以上にわたって取材し続けるという、いわばその分野のプロである。

 

 ここからは本の紹介に入るが、まず最初に「住民協議会」「市民フリースピーチ制度」について。この言葉の正確な意味がすぐに分かる人はほとんどいないだろう。

 

 これらのキーワードは、行政が政策を企画、実行していく過程で、住民にもメンバーとして参加してもらい、行政、議員、住民がお互いに意見を言い合い、聞きながら政策を実現していくための「仕組み」である。

 

 本書は、「住民」「議会」「選挙」「若者」という4つの章を立てて、各分野で独自の取り組みを実現している14の自治体・民間組織の事例を紹介している。

 各章には事例の具体的な説明の後に、関係者へのインタビューも掲載されていて、改革に取り組んだ経緯などがわかる。

 

 どの自治体・民間組織にも、その取り組む姿勢として、行政と議会によって「固定化」「形がい化」した市政全体を、住民の意見を取り入れることで、「活性化」し、3者の協力関係を強めて、より良い形に変えたいという強い意志が感じられる。

 

 こうした動きの背景には、有権者の選挙への関心が中長期的に薄らいでいるという事実への危機感があるのは確かだろう。

 総務省の「目で見る投票率(平成31年3月)」によれば、投票率は昭和20年代から一貫して低下傾向にあり、平成27年の統一地方選挙の投票率は、市区町村長選挙で50.02%、市区町村議会議員選挙で 47.33%に留まっている。有権者の半分しか投票していないのだ。

 

 著者はその理由として、第一に政治への「完全無関心派」の存在を挙げたうえで、他の投票に行かない大きな要因として、「地方選の場合、候補者の情報があまりにも少なくて『誰を選んだらよいのかどうにも判断がつかない』という由々しき現実がある」(P106)と指摘している。

 

 投票しなければ、行政・議会に文句を言う資格はないと個人的には思うのだが、現状の選挙制度では、街角の「ポスター」と投函される「選挙公報」、それに候補者名を連呼するだけの「選挙カー」しか候補者との接点がほぼないのも事実。これでは投票意欲が盛り上がらないのも仕方がない面はある。

 

 公職選挙法の不備が低投票率の一因なのだが、こうした制約のなかでも「投票率向上運動」に取り組んだ千葉県市川市や、住民主導で「公開討論会」を実現した東京都小平市などの事例は参考になる。

 

 自治体を構成する3者のなかで、今までは地味な存在だった「市民」が、改革を求めて全国で動き始めていることを知ることができる良書だと思う。

 

 以上が書評であり、以下は議会に関しての個人的な意見だ。

 繰り返しになるようで恐縮だが、定年などで比較的時間に余裕のある人は、ぜひ一度地元の市議会を傍聴することを勧めたい。私には昨年の選挙を通じて個人的に知り合いの議員が数名いるので、その議員の一般質問を欠かさず傍聴するが、特に知り合いの議員などがいない場合は各会派の代表質問でもいいだろう。

 時期的にはどの地方議会も3月議会が2月末あたりから始まるはずだが、自治体によって異なるので、市報や市のWebサイトで確認してほしい。

  納税者、有権者として傍聴する権利はあるのだから、これを生かさないのはもったいない