〈平成〉の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか
2018年8月14日
本書は7章から構成されるが、その内容を突き詰めると、
1. 工業化社会が進展した戦後の昭和の時代は良かった
2. 平成になってポスト工業化社会となり、社会的分断、格差が広がった
3. この原因はネオリベラリズム(新自由主義)にある
以上の3点に集約される。
著者は、ネオリベラリズム(ネオリベ)は個人の競争と自由を統治の基盤としており、人々の社会的繋がり
を破壊し、その結果「貧困問題」がまず浮上したと論じている。
また、「自己責任論」の蔓延が、本来政治や社会が取り組むべき貧困などの問題を先送り・放置したとして
いる。(第1、2章)
まず、ネオリベを徹底的に批判しているが、冷戦が終結しグローバルにモノ、カネ、ヒトの動きが加速して
まず、ネオリベを徹底的に批判しているが、冷戦が終結しグローバルにモノ、カネ、ヒトの動きが加速して
いくなかで、資源を輸入し製品を輸出するという「貿易立国」の日本だけが蚊帳の外という選択が可能だった
のだろうか。仮に排外主義的な政策を固持していたら、現在の経済規模を日本は有していないだろう。
日本が政官財に国民までもが一体となって一方向に頑張れば良かったのは昭和までで、平成からは、各構成
日本が政官財に国民までもが一体となって一方向に頑張れば良かったのは昭和までで、平成からは、各構成
員がその知識を深め想像力を鍛えて「自分の進むべき道を自分で選択する時代になった」ということを理解し、
時代に立ち向かうべきだったのに、その認識をしっかりした者と、しなかった者の格差が、貧富の「二極化」
という結果になったのではないだろうか。
結局は、時代の流れであった「規制の撤廃や緩和」という既得権益を開放する社会構造の変化に付いて来な
かったという意味では、完全に自己責任である(ここに社会的弱者は含まれない。彼らは最初から保護の対象
である)。
確かに「自己責任」という言葉は便利で、個人の失敗は何でもこの言葉のせいにできてしまうので危険では
確かに「自己責任」という言葉は便利で、個人の失敗は何でもこの言葉のせいにできてしまうので危険では
あるが、著者のようにそのデメリットばかりを強調するのは如何なものか。求人倍率が低下しても正社員(公
務員を含む)として採用される学生がゼロになったわけではない。過去のデータを見たが、それまでの80%台
の就職率が50%程度に落ちただけだ。半分以上の学生は無事に就職できているのだ。ようするに、景気の波に
左右されやすい中堅クラスの学生の就職が影響を受けたという話である。さらに言えば、下位クラスの学生は
例年就職に苦労しているはずだ。そしてそれらの大学を選んだのは他ならぬ自分自身ではないか。
さて、平成の時代の政治・経済を語るに欠かせないキーワードに「民営化」がある。これは親方日の丸の殿
さて、平成の時代の政治・経済を語るに欠かせないキーワードに「民営化」がある。これは親方日の丸の殿
様商売が、自己責任のもとで経営手腕が問われるという価値観の大転換だ。
旧国鉄は民営化されてJR各社になった。それまでは毎年のようにストライキ・運賃引き上げを実施、職員の
態度も横柄だったが、JRになって「労働貴族」と呼ばれた労組幹部や不良社員を一掃し、新型車両や駅設備等
への積極投資を行い輸送手段としての付加価値を向上させ、JR東日本は電子マネーSUICAの普及まで実現した。
旧電電公社もNTTとなり、グループ企業間および他の民間企業とのサービス向上の競争が起き、高速ネット
ワーク網、モバイル通信などで大きな進展があった。
以上のどちらの民営化も、企業が活性化したことで国民生活に貢献しているのは事実。これが「昭和」のま
まで、著者のいうネオリベの波に晒されなかったら、日本経済がどうなっていたか想像もできない。
新しい時代を切り開くには、良くも悪くも犠牲が伴うものである。政府の役割はこの犠牲(リストラされる
新しい時代を切り開くには、良くも悪くも犠牲が伴うものである。政府の役割はこの犠牲(リストラされる
業界や従業員への対応など)を少なくすることだが、必要以上の保護は改革の勢いを削ぐことになりかねない。
この保護のレベルが現状において、まだ許容の範囲内なのか、もう限界にきているのかは、国民が選挙でそ
この保護のレベルが現状において、まだ許容の範囲内なのか、もう限界にきているのかは、国民が選挙でそ
の意思を示すしかないだろう。著者は貧困化などの原因を、安倍政権の政策運営にあると厳しく批判している
が、ここ数年政権与党が国政選挙で連戦連勝しているのは、「他に選択肢がない」という消極的な理由だけで
説明が付くとは思えないのだが。