如月五月の「ちょっと気になる話題、情報を斜め視線から」

ちょっと気になる話題、情報を斜め視線で解説

50代になったら「他人から」より「自分による」自己評価を優先すべき

「肩書に執着する50男」ほど心が折れやすい理由(東洋経済オンライン)

齋藤 孝 : 明治大学教授

 

 会社員が50代になって役職定年を迎えると、厳しい現実を受け入れられなくなるという現実を解説する記事「『肩書に執着する50男』ほど心が折れやすい理由」が11月24日付けの東洋経済オンラインに掲載された。

 

 内容を要約すると、地位や肩書を失うことで「新たな目標やモチベーション、アイデンティティーを模索して、他者からの承認欲求を求めるようになる」ので、「2周目に入った新しい人生の現実を受け入れ、新しい価値観と基準を自分の中で作らねばなりません」ということになる。

 

 記事では、「男性に比べて、女性は社会的な地位や肩書にそれほどこだわりません」と言う一般的な傾向の他、「結局は誰かから自分の存在を認めてほしい、重要で大切な存在だと思われたいという気持ちが、これらのモチベーションの根源にある」と解説している。

 

 私自身も50代後半になって役職定年を迎えて、部下は一人もいないし、直属の上司は年下、責任ある仕事も少ないというのが現実だ。加えて、座席も一般職員と同じ並びになる。

 役職定年を迎えた当時は、覚悟はしていたものの、多少なりとも「虚しさ」を感じたのは事実だ。

 ただ、自分が役職定年を迎える前から制度はあったので、先輩たちがどのように勤務体系が変わるのかは、目撃してきたということもあって、「ショック」はなかった。

 

 こうして一カ月も過ぎると「虚しさ」は「ゆとり」に変化した。具体的には、自分で自分をコントロールする時間枠が相当に増えて、負担が減ったのだ。

 部会以外には会議にも呼ばれないので、資料の作成や確認の手間はなくなったし、それに伴って上司や部下への報告や指示も不要になった。これで精神的な負担は激減した。

 

 加えて言えば、個人的な事情から変則時間帯での勤務を承認してもらって、朝7時から夕方15時までの勤務にシフトしたことで、朝夕の通勤地獄からも解放された。これも身体的な負担の軽減になった。

 

 今思えば、現在の会社に勤めて30年以上経って、出世競争にも決着が付き、そろそろ張りつめていた「気」を緩めてもいい時期だと考えていたことが、結果的に良かったのだと思う。

 

 記事では後半で、「人間は社会的な動物ですから周囲の評価や評判、名声や名誉を求めます」とし、「結局は誰かから自分の存在を認めてほしい、重要で大切な存在だと思われたいという気持ちが、これらのモチベーションの根源にあるのです」と“承認欲求”に対して、「人間の性」と理解を示している。

 

 確かに、顧問やら参与やらといった名誉職の肩書を有難がる人たちの感情も理解できなくはない。私自身も「ないよりはあった方がましかも」とは思うが、特段欲しいとは思わない。

 

 この私の考え方の根底には「50代後半にもなって自分の価値を他人に決められてたまるか」という意識があるのだと思う。

 

 アメリカ合衆国第16代大統領・リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持ちなさい」と言ったそうだが、私が言い繋ぐとすれば「50歳を過ぎたら自分の価値は自分で決めなさい」ということになる。

 

 これから役職定年を迎える人、すでに役職定年となって悩んでいる人には、「これからは他人からの評価よりも自分で自分を評価する」ことを勧めたい。

 

 これは役職定年を迎えた自分の体験だが、どんなに仕事に精力を注いでも、逆に業務に影響が出ない程度に手を抜いても、会社の査定や評価にはほとんど影響しないと言っていい。そのぐらい会社は役職定年者を「戦力」としては見ていないのが実態だ。

 

 であれば、本当の定年である60歳までは「モラトリアム」の期間として、それこそ記事にある「2週目の人生」を考えることに充てるのが正解だろう。「疎外」されたのではなく「別格」になったと受け止めればいいのだ。

 

 かく言う私自身、第二の人生の指針を模索中ではあるのだが、時間的に追い詰められているという感じはない。何かのきっかけで興味が向いたことを、とにかく試してみることを実践しているので、自分主導で楽しんでいる感覚の方が強い。

 

 あと数年で本当の定年(60歳)なる訳だが、それまでに何かやりたいことが見つかれば「儲けもの」ぐらいの心構えでいいと思っている。