如月五月の「ちょっと気になる話題、情報を斜め視線から」

ちょっと気になる話題、情報を斜め視線で解説

改めて「スポーツの勝利至上主義」の意義を問う

スポーツ競技を別格扱いする異様さ

 

 25日に当該ブログで書いた「日本人は「五輪」「国際機関」「ノーベル賞」への信奉を改めるべきでは」は、はっきり言ってあまり評価はよくなかった。

 

 理由はいろいろ考えられるが、この3つをいまだに高く評価する人が多いのか、すでに分かり切ったことだったのか、詳細は不明だ。まあどう評価するかは個人の自由なので、ここではとやかく言わない。

 さて、世界最大のスポーツの祭典であるオリンピックに直接関連する訳ではないが、日本のスポーツ界、特に体育会系関係者の意識に対する内容で、過去に強烈な印象の記事があったことをふと思い出したので、ここで紹介しておきたい。

 

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 その記事は言論プラットフォーム「アゴラ」で約2年前の201832日に掲載された「はっきり言おう、“スポーツ馬鹿”は文字を書くな」である。

 この記事は、同年227日に日刊スポーツに掲載された記事「順番を間違ってないか、公立高の部活週休2日に疑問」に対する反論という形になっている。

 

 批判の対象となった元ネタの日刊スポーツの記事は、教員の働き方改革について「多忙でどうしようもないならば、部活でなく、授業を減らせばいい。学業指導は学習塾にかなりの部分を依存している現状で、仮に授業時間が3分の2になって、勉強ができなくなって困る生徒は、果たして、どれほどいるのだろう」と主張している。

 

 これに対してアゴラの記事を執筆した清谷真一氏は、冒頭で「率直に申し上げて、脳みその代わりに筋肉が入っている馬鹿は文字を書くんじゃないよ。こういうスポーツ先軍主義、スポーツ土人がいるから日本の民度が上がらない」と強烈に批判している。

 気が付いた方も多いとは思うが、通常このような批判をする場合は「文章」を書くな、という表現をするはずだが、清谷氏はあえて「文字」と表現していることに、怒りの大きさがにじみ出ている。

 

 清谷氏の主張に類似する最近の記事としては、325日の東洋経済オンラインに掲載された「五輪延期で日本人が考えるべきスポーツの意義」というタイトルの記事がある。

 この記事では「日本ではスポーツとは『生活をかけて精進する』一握りのアスリートのものであり、それ以外は傍観者にすぎない」とし、新型コロナウイルスが感染拡大する「命の危険があるような状況で、アスリートがスポーツをすることなどありえない、と意識をしなければならない」と結論付けている。

 

 異論反論はあろうかと思うが、個人的には日本のスポーツ界にまん延し続ける「根性絶対主義」や「勝利至上主義」の姿勢には反対の立場である。

 私自身は中学、高校と水泳部だったが、野球部のようなひどいレベルではないにしろ、部内のいじめや先輩からの「顔面への平手打ち」はあったし、自分も理不尽な暴力被害を受けた覚えはある。当時は先輩に反論できるような雰囲気ではないかったし、特にケガをしたわけでもないので問題視もしなかったが、今思えば完全なパワハラである。

 原因は競技会でたいした成績を残せなかったことだった。「成績不振は根性が足りない」という考えが当時の部活動の根底にあるのは言うまでもない。

 

 そもそもオリンピックが始まると、新聞紙面にメダル獲得数上位国のランキングが毎日掲載されること自体に、どこか違和感を感じる。グローバル化の進展で出身国と現在の国籍が異なる選手が代表選手となることも多い中で、国別のメダル獲得数競争にどれだけの意味があるのかという疑問もある。

 言うまでなく、メダルを取ることはとても名誉なことではあるが、あくまで結果であって取れなかったからといって、選手、関係者はもちろん応援した人も必要以上に落胆したり残念がったりする必要はないと思う。

 このような「勝ってこそ価値や意味がある」という意識が日本社会全体に深く根付いているので、非常識ともいえるスポーツの勝利至上主義がまかり通るのだ。

 

 別の具体例を挙げてみたい。毎年正月恒例の箱根駅伝だが、好記録を出した4年生の出場選手が「箱根駅伝を目標に頑張ってきたので、大学卒業後は陸上競技をやめます」と発言すると、一部の陸上関係者から「オリンピックのマラソンでメダルが狙えるのにもったいない」といった発言が聞かれる。

 

 陸上競技の長距離選手が何を最終目標にして頑張るかは本人の自由ではないか。本格的な競技スポーツは大学生までで、卒業後に社会人としてビジネスマンなど新たな世界を目指すことに他人がとやかくケチを付けるのは、はっきり言って「身勝手な意見の押し付け」であり「大きなお世話」である。

 

 大体、新聞業界で一般の全国紙が5紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)なのに、スポーツ新聞の全国紙が4紙(日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知、サンケイスポーツ)もあること自体が、日本のスポーツ競技に対する特殊かつ異様な存在意義を生み出し、維持し続けている諸悪の根源のように思えて仕方がないのだが。