堀江貴文「所有欲が人を幸せにすることはない」(東洋経済オンライン)
堀江 貴文 : 実業家
モノを「所有」することで、人が幸せになることはない――と主張する実業家・堀江貴文氏の記事「堀江貴文『所有欲が人を幸せにすることはない』」が9月30日付けの東洋経済オンラインに掲載された。
記事では、「所有欲は、状況によれば行動のモチベーションにもなるだろう。でも所有欲が、人を幸せにすることはない。まず、ない。あるとしたら一瞬だ」とし、モノを「所有」することで得られる喜びは、努力の結果得られる報酬などの「獲得」の喜びと区別すべきだと指摘している。
堀江氏の言いたいことは理解できる。「所有」はおカネで解決できる場合がほとんどだからだ。しかも所有することで、管理、維持、盗難などへの負担やリスクも発生する。
かく言う私も、これまで中学生時代の映画のチラシに始まり、家庭用ゲーム機、フイルムカメラなどを買い集め、現在ではやや古いPCゲームの「所有」におカネをかけている。家計に影響するほどの多額は投じていないが。
で、その過去に収集した所有物が今どうなっているかと言うと、多くは棚や物置で眠っているのが現状だ。
個人的には、引退後の余裕のある時間を生かしてじっくり取り組むためという「理由」はあるのだが、数年後に迫った定年後に、昔のゲーム機やカメラで老後の長い期間楽しめるかどうかは疑問になりつつある。
ゲーム機は操作性も含めたレトロな感覚を実感できるかもしれないが新しいソフトは出ない。フイルムカメラはそもそも、将来までフイルムが供給されているか、現像所が存在するのかも怪しい。使えないとなると、所有する価値は一段と低下する。(富士フイルムは現時点ではフイルム供給を続けるとしているが)。
こう考えると、堀江氏の言う「所有の喜びは一瞬」というのは説得力がある。いざとなれば必要な時に、「借りる」「買う」は別にして、おカネで済ませるのが合理的だからだ。
ただあえて反論するとすれば2点。一つ目は「所有」というか「コレクション」を生きがいにして、それに満足している人も少なからず存在するということ。もう一つは、「所有」と「利用価値」が一致している場合だ。
前者の場合、美術品や骨董品などが多いと思うが、これらに囲まれて幸せな老人を私は複数知っている。彼らは「所有」の喜びを心底から感じているので、他人がとやかく言うべきことではない。彼らの趣味には「合理性」「効率性」という言葉はあまり意味はない。
もともと人間は、合理性だけで行動するわけではないので、彼らの「所有」に意見を挟む気はない。本人が納得しているならば問題はない。
後者の場合は、高級な乗用車が代表例だろうか。仕事で知り合いになった60代の男性なのだが、若いころからクルマが趣味で、スポーツカーを含めて相当の数を乗り継いできたらしい。今乗っているのは高級セダン。
仕事は、呉服の個人の得意先向けの販売。買ってくれる顧客はほぼ決まっているうえ、新たな顧客も紹介がほとんどだという。
商品を見たいと連絡があれば、顧客先に呉服を積んで向かう訳だが、先方の駐車場に止める際に、「貧相なクルマでは顧客の顔を立てられず申し訳ない」ことになるらしい。
つまり呉服を定期的に購入するような富裕層には、その社会的な立場に見合った高級車で乗り付ける必要がある訳だ。
このケースでは、高級車が、自分の趣味の面で充実感を満たしたうえで、仕事上でも有効利用されているので、「所有」の価値は高い。
この手法は一部の不動産ブローカーなどでも利用されいるらしい。こちらはどちらかと言えば「見掛け倒し」「はったり」の意味合いが強そうだが。
聞くところによれば、堀江氏は「自宅」も所有しておらず、「ホテル」住まいらしい。確かにホテルなら、掃除などの家事の手間は減るし、食事は外食で済ませれば問題ない。今は独身のはずだから、家族への時間的な配慮も不要。
「所有」しない主義だから、衣料関係なども最小限のはずで、ホテルの収納で十分なのだろう。
先見性のある堀江氏のことだから、近著「捨て本」を読んで、今後「所有」から距離を置く人は増えるだろう。少し前から世間でキーワードになっている「断捨離」もこの考え方とほぼ同じはずだ。
ただ個人的には、「所有」の非合理性に同意はするものの、堀江氏の切手のようにすべて処分するまでの踏ん切りはまだ付かない。
こうした「こだわり」が結果として、あまり良い結果にならないのは比較的容易に想像できるのだが。