「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く(ダイヤモンド・オンライン)
自分が不利益を受けるわけではなくても、他人の利益を不快に感じる。そんな人たちが少なからずいる――この出だしで始まる記事「『他人の得が許せない』人々が増加中 心に潜む『苦しみ』を読み解く」が10月27日付けのダイヤモンド・オンラインに掲載された。(元記事はAERA2019年10月14日号に掲載された記事)
紹介される実例には、
- 定食チェーンの「やよい軒」が、無料だったご飯のおかわりを試験的に有料にすることに、おかわりをしない客から「不公平だ」という指摘があった
- 女子大生が准教授に、「授業に出てこないのにテストで良い点を取って、いい成績を取る子がいるんです。ずるくないですか?」とクレーム
- 大物俳優へのサインを求めるのに「小学校低学年ほどの子ども」をサイン待ちの前列に並ばせて、女優の関心を惹いて優先的に対応してもらえた
- 自分の方が先に結婚して、こんなに子どもを欲しがっているのに、『なんで後から結婚したあの子が授かったのか』ってずっと思っています
など。
共通するのは、自分が直接不利益を被ったのではなく、相手が有利な立場や環境にあることが許せない、という「妬み」「嫉妬」だ。
記事では、二人の専門家のコメントが紹介されているが、より参考になったのは、浄土真宗本願寺派の研究機関「宗学院」の西塔公崇研究員の意見。
要約すると「自分中心の心があるから、自分の思い通りにならないときに苦しい感情を抱く」ということになる。
昔から「自己チュー」と呼ばれる嫌われがちな人間はいたが、彼らのできること、影響を与えられる範囲は限られていた。狭い範囲でしか迷惑がかからないので、付き合いたくなければ、本人と関わらなければ問題は起きなかった。
これがネット社会の発展などで、自分の主張をSNSなどを通じて自由に世界規模で発信できるようになった。
この結果、自分の考え・主張に一致する人々だけでコミュニティを形成するようになり、「自分の意見が絶対的に正しい。他人はすべて間違っている」という偏った考え方をする「自己チュー」が増殖したのだと思われる。
テクノロジーの発展が、社会に悪影響を与えた例のひとつだろう。
私の周囲にも、ツィッターとかフェイスブックでフォロー数を得意げに語る人がいるが、個人的にはその数にどれだけの意味があるのかよくわからない。
承認要求が満たされるという効果はあるのだろうが、間違っているかもしれない自分の主張を、より強固に見せたいがために、「数」を集めているのであって、その裏側には「自分の存在や主張への自信の弱さ」があるのではないだろうか。
かくいう私も50代後半になってブログを始めたが、これは年々衰えていくはずの「情報への感応度」や「物事への思考力」を、日々文章を書くことで鍛え直すのが主目的で、アクセス数や他者からコメントにはあまり関心はない。
私の考え方の根本には、「他人は他人、自分は自分」というのがあり、他人の成功や失敗にも興味は持つが、関心の矛先は「どうしてそうなったのか」という事実関係に向かっており、「羨望や妬み」の感情はほとんどない。
その理由は単純で「憧れたり、羨んだりしても何の解決にもならず、時間の無駄だから」。
確かに自分も若いころは、恵まれた環境にいる同級生や、実績を上げた同僚に反感を覚えることもあったが、馬齢を重ねるごとに、そういうマイナスの感情を持つことは減っていった。
その意味では、記事で最後の紹介される「給食の調理室で働く50代の新人イジメを繰り返す女性」は、感情面では子供のままの状態の「見掛けだけの大人」だ。
結局のところ、他人を妬むのは、自分の価値を自分で認めていないからであり、これが自信不足の要因となり、他人の恵まれた立場や環境を許せないという「非合理的」な感情を引き起こしている。
関係の薄い他人であれば関りを持たないようにすればいいが、会社の上司・部下や親せきでは無下にするわけにもいかないだろう。
解決策のひとつとして、「自分とは違う世界に住んでいる人」という目で見るという手がある。世界が違うのだから、会話が成立しないことがあっても不思議ではない。
あとは、やはり「自分や自分、他人は他人」という意識を持つことが最も効果的だと思う。多く場合、「他人」は自分が思っているほど「自分」には関心を持っていないもの。であれば、他人の事を気にするだけ無駄だとは思いませんか?